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右側の強盗が十字架上のイエスを癒したという

2021.11.07.

【Family(ファミリー)2002年07月No402】
『ワシントン・タイムズ』創刊20周年
  祝賀晩餐会における創設者記念講演から抜粋https://www.facebook.com/groups/1057532834296823/permalink/4697968210253249/

①『右側の強盗』

十字架で亡くなられたイエス様は、
強盗殺人犯である右側の強盗とともに
亡くなられました。

もし、右側の強盗が、その場にいなければ、
イエス様は、地上に対して、
そして人間に対して、
関係を結びうる何らの因縁も
捜し出すことができませんでした。

しかし、右側の強盗が、
死ぬ立場にあったのにもかかわらず、
イエス様の側に立って
イエス様を抱擁したのです。

人間歴史上、
イエス様の側に立った最後の人は、
誰であったのでしょうか?

それは、ペテロでもなく、
イエス様の父母でもなく、
イスラエルの国でもなく、
ユダヤ教でもありませんでした。
ただ一人、右側の強盗だったのです。

死の場において、自分の因縁を通告し、
死を乗り越えて、イエス様の前に全幅の希望を
かけた、ただ一人の人がいたのですが、
その人が、まさしく
右側の強盗であったというのです。

もし、右側の強盗がいなければ、
イエス様が再び復活なさって、
地上摂理の因縁を
再開させることはできなかったとい事実を、
皆様は知らなければなりません。

四千年歴史を締めくくり、
三十数年間の生涯を締めくくる
その場において、ただ一人でしたが、
初めてイエス様と因縁を結び、
死の道に同参してまでも、イエス様を
希望の主体として侍ることができた人が、
右側の強盗だったのです。

彼が中心になっているという事実は、
彼が使徒達よりも勝っているということを
示してくれています。
“ペテロよりも勝っている”というのです。

なぜならば、右側の強盗は、
内容は知りませんでしたが、
死の場において、その生命が尽きるときまで、
イエス様に侍ることのできる方向性を
備えたからです。

しかし、
ペテロやヤコブのような十二使徒達は、
内容を知っていながらも、そして、
一つの方向性を備えると
宣誓までした者達でありながらも、最後まで、
その方向性を備えることができませんでした。

それゆえに、右側の強盗が、
人類歴史上において、地を身代わりして、
未来を再起させることのできる
中心的な存在になったという事実を、
皆様は知らなければなりません。(P49-50)

②『サタン屈伏』

聖書を見たときに、イエス様が、
個人的、家庭的、民族的、国家的な
条件を立てて、サタンと闘って
完全に勝利したことがあったでしょうか?
勝利することができなかったのです。

イエス様の前にあっても
屈伏しなかったサタンが、
ましてやイエス様を信仰する人に対して
屈伏すると思いますか?

六千年間、神様の御前で讒訴し、
神様のみ旨を蹂躪して、
神様の摂理を台無しにしてきた、
偽りの知恵の大王であるサタンが、
イエス様を信仰する人が、
『退け。』と言ったからといって、
退くと思いますか?そのためには、
相続権が伴わなければならないのです。

私達には、
歴史的な相続権がなければなりません。

アダムからノア、アブラハム、イサク、
ヤコブ、モーセ、イエス様以後までの
伝統と基盤を受け継いで、
歴史的な祭物を身代わりした相続者に
ならなければなりません。

そのようにして、サタンに、
『おまえは、歴史路程において、ノアに敗れ、  
モーセに屈伏したのではないか?
 私は、彼ら全員の勝利の基盤の上に
 立っているのであり、摂理歴史の全ての
 伝統を相続したのだから退きなさい、
 このサタンめ!』と叫んでこそ、
退くようになっているのです。

無条件に『サタンよ、退け!』と、
いくらでも祈祷してみてください。

六千年間、
神様の御前に讒訴し、蹂躪しながら、
復帰摂理を破綻させてきたサタンであるのに、
『私は、
 イエス様を信仰しているので、退け。』
と言ったからといって、
容易に退くと思いますか?
とんでもないことです。

『私は、間違いなく、
 歴史的な神様の心情を通して
 神様が探し求めて来られた者である。
 私は、イエス様の神聖な聖体に
 接ぎ木された者である。』
と言うことができなければなりません。

イエス様が、神様から受け継いだ相続の系譜、
すなわちイエス様をこの地に送られる時までの
四千年間の神様の心情的相続譜に
載っていなければならないのです。

そうして、十字架上において
サタンに勝利するのではなく、
十字架に架からずに屈伏させて
勝利しなければならないのです。

このような実体の相続者として
認定された者であってこそ、
天国に入っていくことができるのです。
(P50-52)

③『キリスト教の出発』

今までのキリスト教は、
霊肉の地上天国を願ってきたのではなく、
肉的世界は放棄してしまい、
霊的救援を目標として、
霊的王国、霊的メシヤとして
イエス様に侍ってくる以外に
ありませんでした。

換言すれば、イスラエル民族には国があり、
選民的国権を持つことができたのですが、
今日、全世界のキリスト教は、
第二イスラエルの霊的国家なのであって、
主権国家、すなわち国がありません。

キリスト教徒は、
霊的第二イスラエル圏内に立っているので、
肉的基盤を持つことができず、
霊的基盤だけを持っているのです。

したがって、霊肉を中心とした地上天国を
完結しなけれびならないという、
神様の本然のみ旨を
成し遂げることができなかったので、
主は再び来ざるをえないという
事実を知らなければなりません。

今日、ここで、
皆様に一つ宣言しようと思うことがあります。

それは、十字架の場においては、
神様が勝利されたのではなく、
サタンが勝利したという事実です。

ゲッセマネの園で、イエス様が、
『今は……闇の支配の時』
(ルカによる福音書第22章53節)
と宣布されたことを、
皆様も記憶していらっしゃることでしょう。

十字架の場は、神様が四千年間、
準備してこられた国を
失ってしまった場であり、
イスラエルの教会を失ってしまった場であり、
洗礼ヨハネの一党と十二弟子、右側の強盗等、
全てを失ってしまった場になったということを
知らなければなりません。

十字架上には、
キリスト教がなかったということを
知らなければなりません。

それでは、
キリスト教は、いつ出発したのでしょうか?

イエス様が、
亡くなられてから三日目に復活され、
四十日の間、自分に反対し、
失ってしまった弟子達に会われ、
そうして聖霊が降臨した後に出発したのが、
キリスト教であったということを
知らなければなりません。

しかし、キリスト教徒達は、二千年間の間、
十字架の道理ではなく、復活の道理によって
キリスト教が生まれたということを知らずに、
信仰してきたのです。

このような事実を悟るならば、
皆様は、全て、悔い改めなければなりません。

イエス様が復活された基台の上から、
キリスト教が始まったので、キリスト教は、
霊的なキリスト教なのです。(P52-53)

④『イエス様の祈祷』

イエス様が、
十字架に架けられて亡くなられることが、
神様のみ旨を
成し遂げることであったとすれば、
ゲッセマネの園におけるイエス様の祈祷は、
間違っていたことになります。

メシヤとしての資格がない祈祷であった、
ということになるのです。
それは、まったく驚くべき事実です。

メシヤとして、一度ならず三度までも、
『我が父よ、もしできることでしたらどうか、
 この杯を私から過ぎ去らせてください。
 しかし、私の思いのままにではなく、
 み意のままになさって下さい』
(マタイによる福音書第26章39節)という
祈祷をすることができるのかというのです。

もし、イエス様が亡くなられるために
来られたのだとすれば、
イスカリオテのユダに賞金を
与えなければならないのではないでしようか?

しかし、イスカリオテのユダについて語られた
『その人は生まれなかった方が、
 彼のためによかったであろう』
(マタイによる福音書第26章24節、
 マルコによる福音書第14章21節)という
イエス様のみ言を、
どのように解釈するのでしょうか?

イエス様が、十字架上で亡くなられなければ、
どのようになっていたでしょうか?

イスラエルの国は、
イエス様の教えに従って安定し、
そのまま残されたはずでしょうし、
ユダヤ教も、そのまま残るように
なるであろうということを、
イエス様は知っておられたのです。

しかし、ご自身が十字架で亡くなられれば、
後世の数多くの人々が、十字架の道に
従っていかなければならなくなるので、
血を流さずしては、
その道を行くことができないであろうし、
数多くのキリスト教徒達が
苦労するであろうということ、
また、主が再び来られても、
苦労されるようになるであろうということを、
イエス様は知っておられたのです。

それゆえに、ゲッセマネの園において、
イエス様は、そのような祈祷を
さぜるをえなかったということを
知らなければなりません。

今日、キリスト教徒達は、
イエス様も肉身を持っていらっしゃたので、
死の苦痛が恐ろしくて、
そのような祈祷をされたのだと言っています。

しかし、
イエス様は、それほどまでにつまらない
メシヤであられたのでしょうか?
(P53-54)

⑤『全てが終わった』

皆様。十字架上で命を落とされながら、
『全てが終わった』
(ヨハネによる福音書第19章30節)
と言われたのは、
どのような意味なのでしょうか?

イエス様は、霊肉を全て救援するための
使命を持ってこられたのですが、
基盤のないこの地上では、神様のみ旨を
完全に成し遂げることはできないということを
悟られたのです。

それゆえ、十字架を背負ってでも、
霊的救援摂理の基台を残し、また、
霊的救援摂理の出発をさせることができる
条件を立てられるために、
ご自身の全てのものを捧げて
『全てが終わった!』と言われたのです。
(P54)

⑥『統一』

皆様は、このようなことを
夢にも考えなかったことでしょう。

神様のみ旨を成すために、
サタンの国を滅亡させ、
サタンの王権を無くし、
人類を(神側に)取り戻そうとされた主が、
このように悲惨に死んでいかれたという
事実を今からでも知って、
キリスト教とユダヤ教は悔い改めて、
一つにならなければなりません。

一つになって、
再び来られる主を迎えることができる準備を
しなければなりません。

真理は、理論に合わなければなりません。
今こそ、盲目的な信仰の時代をはねのけ、
新しい世界に向かって、この世界を収拾し、
救援するために、全世界のキリスト教徒は、
一つに纏まらなければならない時が来ました。

それゆえに、『統一』という言葉が
必要な時が来たということを
知らなければなりません。(P54-55)

⑦『三日路程』

イエス様が亡くなられた後、三日間、
苦しみを受けられたという事実は、
何を意味するのでしょうか?

天地は、依然として死亡圏にあり、
地獄も死亡圏の因縁を持っているために、
イエス様が天地を主管なさるためには、
この死亡圏を下にも超え、
上にも超えなければならなかったのです。

それゆえに、地獄のような、
いちばん底の境地に行って
苦痛を受けたとしても、
それを超え、生命の因縁を追求し、
神様を慰労して差し上げることのできる
希望の道を行かれなければなりませんでした。

したがって、イエス様が、
地獄のようなその環境を経ることによって、
希望の天国に向かって再出発することのできる
道がつくられたのであり、地上では、
捨てられ、追われ、
死の道を行かれたのですが、希望の道を
後世に残しておくことができたのです。

ですから、イエス様は、
三日路程を行かざるをえなかったのです。

三日間、イエス様は、地獄を見物するために
行かれたのではありません。
地獄を知らないイエス様ではあられません。

イエス様は、
そこに行かれて判決(審判)を下し、
死亡世界から生命の世界に
行くことのできる道を
開いておかれなければならなかったのです。

そのようにして、
死亡の地獄世界であるこの地上に、
勝利の基盤を築かれたのであり、
天国に行くことのできる起源を
成しておかれたのです。(P55)

⑧『異端者イエス』

イエス様は、教団の前では異端者として、
民族の前では『律法』の破壊分子として
迫害を受けました。

彼は、自分の氏族から追われ、
家からさえも追い出されました。
洗礼ヨハネの一党からも追われました。

それで、
イエス様は荒野に出て行かれたのですが、
そこではまた、サタンに追われたのです。

しかし、それだけでは終わりませんでした。
後には、全体が動員されて、十字架の死の道、
ゴルゴタの道に追いやったのです。

しかし、
反逆者として追いやる民族に向かって、
かえって涙を流されたイエス様でした。

イエス様は、ユダヤ教団から
異端者として扱われたのですが、
イスラエルのいかなる祭司長よりも、
彼らのために、
より多くの血の涙を流された人でした。

その時代の誰一人として、
ご自身の味方になってくれる人が
いなかったのですが、
イエス様は、その時代の友でした。

民族の反逆者として迫害されたのですが、
民族の忠臣であられたのであり、
教団の異端者として迫害されたのですが、
教団の忠臣であられたのです。(P55-56)

⑨『天の悲しみ』

イエス様の道は、始めから終わりまで、
引き裂かれ、追われ、倒れ、
十字架を背負われた凄惨な歩みでした。

しかし、それだけであったでしょうか?
鞭を持った無謀な悪党達によって
追いやられるという、そのような境遇に
追い込まれることもありました。

このような立場で、もし、
イエス様がエリヤのような人であったならば、
彼も、(預言者エリヤのように)
『ただ私だけ残りました』
(列王記上第19章10節)
という祈祷をしたことでしょう。

しかし、イエス様は、ゲッセマネの園で、
三人の弟子を後ろにおいて祈祷されるとき、
『我が父よ、もしできることでしたらどうか、
 この杯を私から過ぎ去らせてください。
 しかし、私の思いのままにではなく、
 み意のままになさって下さい』
(マタイによる福音書第26章39節)
と祈られました。
このことが偉大であったのです。

自分の事情もただ一つであり、
自らの一身は民族の祭物であり、
人類の祭物であり、天倫の祭物であるという
ことを知っていらっしゃたのです。

このようなことをご存じであったイエス様は、
自分の悲しみも悲しみであるけれども、
天の悲しみがどれほど大きいものであるかと
いうことを心配されました。
その心のほうが、さらに大きかったのです。

民族のために
(ご自身が)現れたのにもかかわらず、
民族の前に裏切られる、そのような自分自身を
見詰められる天の悲しみのほうが、
どれほど大きいだろうかということを、
より心配されたのです。

イエス様は、天の皇太子であられ、
万宇宙の主人公であられ、
メシヤであられました。

そのようなイエス様が、
『凄惨な十字架で落命とは、
 どういうことでしょうか?』と言って
嘆息しようと思われれば、この宇宙を動員して
嘆息することもできたのです。

しかし、嘆息することのできない
自分自身であるということを感じられたので、
追われる立場に立つようになったことを、
むしろ天の御前に“面目ない。”
と思われたのです。

教団を糾合し、民族を糾合して、
天の王国を建設し、世界を父の懐に抱かせて
差し上げなければならない責任を担われた
イエス様は、その使命を残したまま
十字架の道を行かれるようになるとき、
恨むべきいかなるものも
感じられませんでした。

イエス様が、
『この杯を私から過ぎ去らせてください。』
(マタイによる福音書第26章39節)
と祈祷されたのも、自らの一身が死ぬことが
悲しかったからではありません。

自らの一身の死によって、
民族の悲しみと天の悲しみが
加重されるということを知っておられたので、
そのように祈祷されたのです。

イエス様は、自分が十字架で倒れれば、
後代の世界人類の前に、
加重されることになる十字架が残され、
そのことによって、悲しみの歴史は
終わることがないということをご存じでした。

死の道が終わらないということを
ご存じであったのです。

そして、自分がゴルゴダの道を行けば、
自分に従う人々もまた、ゴルゴタの道を
歩まなければならないということを
ご存じでした。

十字架だけでなく、
もっと困難な道が残されるということを
ご存じであったイエス様であられたのです。

両手両足に釘が打ち込まれ、
脇を槍で突き刺されて血を流す立場、
茨の冠をかぶる立場に立ったとしても、
これが自分で終わらないということを
ご存じであったイエス様は、天に向かって、
『全てが終わった』
(ヨハネによる福音書第19章30節)
と言われました。

しかし、そのみ言は、人間世界において、
十字架の道が全て終わったということでは
ありませんでした。

十字架のために泣きながら案ずる心の訴えが、
天と通じたということを示しているのです。

このように、イエス様は、
数多くの預言者や烈士らが、
天の前に犯した全ての過ちを背負われ、
天を慰労して差し上げるために、
自分自身を生きた祭物として
天の前に捧げられたという事実を、
私達は知らなければなりません。

それでは、
ここでイエス様に対された神様の心情は、
どのようなものであられたのでしょうか?

死にゆくイエス様のその姿、
天を案じながら十字架の峠を越えて行く
その姿を見詰められるとき、人間世界に対する
憤りがあるとするならば、
これ以上の憤りはなかったはずであり、
天の四千年間の歴史路程を見てみても、
これより、
より大きな憤りはなかったことでしょう。
(P56-58)

⑩『新しい契約』

しかし、
イエス様ご自身は、死にゆくその中で、
『父よ、彼らをおゆるしください。
 彼らは何をしているのか、
 分からずにいるのです。』
(ルカによる福音書第23章34節)
と言われました。

神様には、即座に、ノアの時以上の
審判をしたいという思いがあられたのですが、 
イエス様が、民族を握り締めて亡くなられ、
教団を握り締めて亡くなられ、十字架を
握り締めて亡くなられたことによって、
人間を捨てられることができず、
そのまま握り締めてこられたのです。

このような心的な因縁が、後代の人間、
残されたイスラエル民族と
結ばれていたことによって、神様は、
背反する後代の教団と人間達を
捨てられることができずに、
支えてこられたのです。

四千年間、
復活摂理を通して救援の役事をしてこられた
神様は、イエス様を復活させる摂理だけでは、
天上のみ旨と、地上のみ旨を合わせて
完結させることができないので、
新しい契約を立てられ、これをもって、
天上と地上のみ旨を合わせて、
約束なさった本然の園を取り戻す
摂理をしてこられたということを、皆様は、
よく知っていらっしゃることでしょう。

聖書を見ると、イエス様が与えられた杯と、
割いて与れたパンが、
すなわち新しい契約であると、あります。

イエス様が昇天された後に、私達は、
そのイエス様の血と肉を受けたのですから、
これは、すなわち、成し遂げるべき
全体の生命を身代わりすると同時に、
全体の摂理を身代わりしたもので
あるということを、
皆様は知らなければなりません。

イエス様の血と、
イエス様の肉を受けるということは、
何を象徴するのでしょうか?

それは、イエス様一個人の血と肉を
意味するのではありません。

大きくは、“天と地”を意味するのであり、
小さくは、“中心と個体”を意味するのです。

また、
肉は“真理”を象徴し、
血は“神霊”を象徴します。

これら全てのものを、イエス様は、
私達に何らかの条件もなしに、
下さったのです。

神様と人間の間に塞がってしまったものとは、
何なのでしょうか?

天のみ旨が地上に現れ、地上の全体状況が、
天のみ旨に帰結され、一つの目的をもって
動かなければならないのですが、
これが、塞がってしまったのです。

イエス様か、
新しい契約を立てていかれたので、
彼が亡くなった後は、
霊的な世界と肉的な世界が、
人、すなわちイエス様に従う使徒を中心として
連結されなければならない、
という条件が残されました。

イエス様が亡くなられなければ、
イエス様を中心として、天と地が連結され、
一つになったはずでしたが、
亡くなられることによって、
イエス様が、天の条件を
身代わりされるようになったのであり、
聖霊が、地の条件を
身代わりするようになったのです。(P58-60)

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