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「国広と足利」余話3

足利の文献にみる国広

 郷土史の基本文献とされる旧足利市史、下巻の2=1929(昭和4年)=の第6編=人物、第1章=明治以前の人物に、「藤原国広 刀剣鍛冶」として記載されている。
 その中で足利に関する記述として,「故ありて足利に来り、足利学校に仮寓して、専ら刀剣を作れり。(当時の庠主しょうしゅ=は第9世閑室)」とある。
 また後段に脇差・布袋国広(足利市民文化財団蔵)の説明として、「徳川伯爵(旧田安家)所蔵の小脇差(長1尺1寸)国広の作には、表に杖、裏に「夢香梅里多」の文字と布袋の彫あり。銘は「日州之住信濃守国広 於野州足利学校打之 天正十八年八月」と記している。
 因みに布袋国広は、「堀川国広考」=1927(昭和2)年、中央刀剣会本部=で、「小脇差 徳川伯爵家蔵」とあり、27年後の1954(昭和29)年発行の「国広大艦」では「短刀 三井高修氏蔵」となっている。その後、1989(平成元)年、足利市民文化財団が取得し、現在に至っている。
 山姥切国広の記述は時代が下り、1977(昭和52)年発行の「足利=原始から現代まで」(下野新聞社)=にある。
 山姥切国広は1954(昭和29)年発行の「国広大艦」=編集兼発行者・財団法人日本美術刀剣保蔵協会=では「焼失」と記載され、6年後の1960(昭和35)年に見つかり、刀剣界を騒がせた。長く所在不明だった経緯があり、地元でも余り知られていなかったようだ。
 その著書「足利=原始から現代まで」の中の「戦国時代の刀鍛冶」で「刀工国広を招く」として、1590(天正18)年に「小脇差には『於足利学校打之』とある」と布袋国広の作刀とともに、刀剣研究の第一人者だった佐藤寒山氏の研究を踏まえ、「国広は『九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長』と銘のある山姥切やまうばぎりと称する刀を打っている。平顕長とは足利の領主長尾顕長その人である」と説明している。
 山姥切国広は発見後、1962(昭和37)発行の「堀川国広とその弟子」=編集者・佐藤貫一(寒山)、出版兼発行者・伊勢寅彦=で紹介され、刀剣界を中心に広く知れ渡り、一般にも取り上げられるようになったようだ。
 作家・海音寺潮五郎は刀匠伝=1967(昭和42)年1月4日から同2月15日まで読売新聞に掲載)の「国広・国貞・真改」の中で、堀川国広と足利との関係を紹介し。「新版日本刀講座によると、彼は天正十八年に下野の足利学校で、足利の城主長尾顕長ために作刀している」と記述している。
 引用文の中の新編日本刀講座は山姥切国広の発見に深くかかわった刀剣研究家、本間順二、佐藤寒山両氏の著書で、その第4巻、新刀鑑定論=1966(昭和41)年=で、「国広は野州足利の城主長尾顕長の許にあって鍛刀していると」と記し、山姥切国広について「山姥切長義の写しでいかにも傑出した出来である」と紹介している。

      (写真は旧足利市史で掲載されている「藤原国広」の一部)

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