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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑤

  第5話 
 どんよりとした梅雨空が低く垂れこめ、胸の内まで重くのしかかる。蔦重は躊躇いがちに錦絵数枚を写楽に差し出した。
「もう目にしてるだろうが、豊国の役者絵だ」
「はい。もう絵草子屋の店先でじっくり見ておりますが」
「そうかい。それで、どう思う、豊国の錦絵を」
「歌川門下、創始者豊春の元で修行しただけあって、見事な腕前だと思っております。どの役者絵も役どころを抑え、観る者を引き付ける力があります」
「確かに。悔しいが、敵ながらあっぱれな出来栄えだ。何とか、これを乗り越えなくちゃならねえ、写楽の力で」
「重々、承知しておりますが……」
 写楽は神妙な面持ちで、豊国の錦絵を蔦重に返した。大首絵28枚、悩み苦しみ、精魂を傾け描き上げた。この上、どこをどうすれば豊国に勝るのか。
「そこで夏の興行の図柄なんだが、心機一転、がらりと変えようと思ってな」
「それは、どのように」
「立ち姿にしようと考えてる」
「と、おっしゃると、大首絵はもう描かないんで」
「そのつもりだ」
「一枚もですか」
「そうだ。すべて立ち姿でそろえる」
「何故でございますか。お言葉でございますが、私は大首絵で役者連中を描きたい。大首絵だからこそ、役者の一瞬の表情、胸の内さえ表すことができる。その上、蝦蔵,半四郎、門之助に鬼次、どの役者の面構えも的確に捉えていると。旦那もお認めになってくれたはずで」
「その通りだ。写楽の大首絵は天下一だ。誰にも真似は出来ねえ」
「では、なぜ、お止めになると。思いのほか売り上げが伸びなかったからで」
「商いになるかならねえかは版元が責任を持つことで、絵師が気に病むことじゃねえ。立ち姿にこだわるのは、豊国に真っ向、勝負してえからだ。大首絵で写楽の右に出るものはいねえのは、天下周知だ。立ち姿でも豊国に勝れば、文字通り天下一の役者絵師ってもんだ。そう思わねえか」
「確かに、そうかもしれませんが……」
 写楽は言葉を濁した。蔦重の理屈がどうにも胸にすとんと落ちない。得意な大首絵で再度、挑んでもいいではないか。むしろそうしたい、のが本音だ。
 蔦重の胸中も激しく波立っている。売れる売れねえは気にするな、豊国の立ち姿に打ち勝って日本一の絵師だ、とは空々しく、詭弁でしかない。怪訝そうな写楽の様子を見れば、蔦重のごり押しは悟られている。
 天下無類、斬新、奇抜、驚愕……写楽の大首絵には形容しきれない魅力がある。大首絵の役者絵は写楽の真髄ではなかったのか。
 半年前、時折、小雪の舞う底冷えのする寒い日だった。
 正月興行とあって、木挽町5丁目の河原崎座は多くの観客で埋まっていた。演目は御曳愛嬌曽我で、舞台では市川門之助が曽我十郎に扮し、立ち回っている。
 2階桟敷席から蔦重は、桝席の一人の男を見下ろし、その手元を注視していた。その男は舞台にこまめに目を向けては、一心不乱に筆を走らせている。
 蔦重は供の手代に耳打ちし、次の幕間にその男を連れてくるよう言い伝えた。
「拙者にどのような御用であろう」
 棒縞の着物に黒の袷羽織とも着古しているが、月代はきちんと摺り上げ、背筋もぴんと伸び端然としていた。阿波徳島藩のお抱えの能役者、斎藤十郎兵衛と名乗った。年の頃は30前後か。
「申し遅れました。私は日本橋通油町で書肆を営む蔦屋重三郎でございます。観劇をお楽しみのところ、突然、お呼び立てし、誠に申し訳ない」
 相手が士分の手前、蔦重は慇懃に挨拶し、
「桝席で何やら筆を走らせ、舞台の役者を描いていたとお見受けする、失礼千万と重々承知しておりますが、その役者絵を見せて頂けないでしょうか」
 と、両手をつき、頭を下げた。
「ご覧になられていたのか。手すさびで描いているだけで、他人様にお見せするような代物ではない。ましてや高名な版元、蔦屋殿にお恥ずかしい限りだ」
「そうはおっしゃらずに。見事な筆捌きに驚きましてな。私も版元の端くれ、数多の絵師を見てきております。是非とも、見せていただきたい」
 蔦重は再度、深く腰を折った。
「そこまでおっしゃるなら」
 斎藤と名乗る武士は懐に右手を差し入れ、おずおずと画紙の束を取り出した。
 10数枚束ねてあるだろうか。蔦重はそろり、そろりと一枚一枚めくった。
 凄む、怯む、動じず、惑う……。どれも役者の上半身図で、その表情、所作にその場面での彼らの胸の内が如実に表現されている。何より、筆致は粗削りだが、画紙から飛び出すほどの迫力がある。その上、当代一流の役者連中を挑発するかのように醜いまでに写実的に描写し、権威、既成に対峙しようとする心意気がある。「しゃらくせい」。写楽の号の由来にもなった。
 蔦重の求める理想の役者絵だった。
 老中・松平定信失脚後も幕府の出版物への統制は緩むことなく、武士が錦絵に携わるのはお咎めを受けかねない。松平定信の文武奨励策を風刺した黄表紙・鸚鵡返文武二道で、命を断った戯作者・恋川春町こと駿河小島藩士・倉橋格の例もある。
「斎藤殿の役者絵は名手とされた勝川春草を凌ぐものになりましょう。巷間で打ち捨てられるのは誠に忍びない。無論、斎藤殿に危害が及ばぬよう、耕書堂として万全の態勢を整えます。何卒、斎藤殿の力をお借りしたい」
 蔦重は平身低頭、説き伏せた経緯がある。
 その写楽の写楽たる大首絵を封じる。背に腹は代えられない。芝居町を敵に回し、資金提供が途絶えることは死活問題だ。既に資金打ち切りの意向も耳に入っている。かといって、写楽の役者絵から手を引くわけにはいかない。役者絵を制覇し、ゆくゆくは日の本一の書肆になる。
「ここで引くわけにはいかねえんだ」
 蔦重は自分に言い聞かせるように独り言ちた。
                        第6話に続く。

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