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Every dog has his day.⑪

  第11話、
 薫風が川面を渡り、黒、赤、青、緑など多彩な大小の鯉幟をはためかせている。「いいこい」にかけて、その数1151匹。遊覧舟を運航する地元NPOの主催で、春を告げる巴波川の風物詩になっている。
 綱手道を南に下り、黒板塀の続く塚田歴史伝説館を過ぎ、左に折れて路地に入ると、和菓子・文栄堂の看板が見えた。老舗の一つで、程よい甘さと絶妙な舌触りの餡を使った饅頭が評判だ。
「忙しいところ、呼びたててすまない。用件は江上さんにとっては最重要の歌麿だし、電話で伝えきれない状況になっていてね」
 社長の神村は右手でサングラスを持ち、軽く前後左右に揺らして、元の位置に懸け戻した。
 神村は20代で網膜色素変症を発病し、3年前に両眼とも完全に視力を喪失した。還暦を過ぎた今、そのハンディを乗り越え、家業に専念する傍ら、福祉や歴史分野の市民活動家として多彩な活動に忙しい日々を送る。
 市長、県議選など政治活動にも精力的に関わり、江上が記者時代に掲載した反市長派の市議会議長誕生の記事に対し、神村は「骨がある」とわざわざ江上に連絡を取り、以来、2人は市政全般について意見交換する仲になった。江上の退社後も連絡を取り合っている。
「例の件ですよね。何か、動きがあったんですか」
 江上は待ちきれぬように用件を切り出した。
 昨年秋、神村からの電話は衝撃だった。彼と旧交のあった栃木市の旧家で実業家だった西郷の未亡人から突然、神村の元に電話連絡があり、
「歌麿の件は黙っていてほしい」
 と、懇願された。
 話を聞くと、歌麿の肉筆画「鐘馗図」と「相撲図」を持っているとのことだった。
 両図は40年前、「六玉川」とともに浮世絵研究家、林美一の手で公にされ、歌麿の栃木市滞在を裏付ける貴重な作品だ。六玉川の調査が不首尾に終わった江上にとっては、最優先の調査対象作品といえた。
 神村は即座に江上に連絡。江上は市長の末永らと協議し、推移を注視していた。作品に接触するまでには綿密な段取りが必要となる。所有者が「黙って」と口止めする以上、猶更、慎重な対応が求められた。
 神村は重い口を開いた。
「実はね、再度、最後の奥さんから電話が入ってね。さらに困ったことになったなと思って」
「困った事態になったとは、一体、どういう事なんですか」
「どうやら美術商が入り込んでいるらしいんだよ、歌麿作品で」
「このタイミングで美術商が既に接触しているなんて、一体、どこから聞きつけたんでしょうか」
「詳しいことは分からんが、西郷が生前、段取りしていたのかもしれない。奥さんが特に美術品売買に詳しいわけでもないだろうから。素人にとって美術品の処分は簡単じゃないからな」
「だとすると、美術商任せなのは、なおさら心配ですね。傷がある、退色しているなどど難癖をつけて値切るそうですから。第一、きちんと学術的に歌麿作品と鑑定できるんでしょうか」
 ーーずぶの素人が美術商と売買交渉するなんて、無謀極まりない。美術商にとって赤子の手をひねるようなもんだ
 浮世絵専門の学芸員、平沢は念を押していた。歌麿調査の開始以来、江上は都内の美術館に勤務する彼に連絡し、アドバイスを受けている。平沢は歌川広重の研究者として知られ、著書も多い。
 平沢によれば、悪質な美術商の鑑定基準は売れるか、売れないかで、贋作でも適当に値付けをして買い取る。現金をちらつかせ値切って買い取るのが常套手段で、鑑定料も請求するらしい。
「その点は私も心配なんだが、だからといって口を挟むのは気が引けてね。他人様の所有物にとやかく言える立場じゃないし」
「美術商が入り込んでいる以上、西郷さんは売るつもりなんでしょうね」
「まあ、処分したい気はあるんだろう。それに、その美術商が『周辺が騒がしくなって』と盛んに煽り立てて、売却を急かせている様子なんだ」
 既に半年余り、江上らの研究会は歌麿調査に奔走している。浮世絵研究者や郷土史家から精力的に話を聞き込み、旧家を訪ね歩いて情報収集。その調査結果を随時、ホームページやチラシなどで発信し、新たな肉筆画発掘のための世論喚起に力を入れている。その活動が雪月花の写真発見の一因になり、さらに新聞、テレビの各メディアに取り上げられることで一層、栃木市の歌麿が注目され、話題になっている。
 江上らの巻き起こす一連の動向が、美術商にとっては寝た子を起こし、売買に支障をきたしかねない不都合な状況を生み出し、西郷家に出入りする業者も神経を尖らせているのだろう。
「とにかく、『静かにしてくれって』と奥さんからはお願いされて、口止めされているんだが」
「ということは、神村さんが肉筆画の所蔵を知っていると、西郷さんは思っているんですね」
「そういうことだろうな。実は私は見たことはない。奥さんから電話をもらって、そんな話も昔、小耳に挟んだことがあったかなと思った程度なんだ。生前、西郷とは随分、懇意にしていたから、奥さんはそう思い込んだんだろう」
「いずれにせよ、所有者に売る意思があるのなら、是非、栃木市に譲渡してもらいたいですね」
「それが望ましいが、あくまで他人様のものだからね。奥さんの意向を決して無視するわけにはいかない。私だって栃木市に残してもらいたい気持ちは山々だが、さてどうしたものか」
 神村は腕組みし、考え込んだ。
                       第12話に続く。
 第12話:Every dog has his day.⑫|磨知 亨/Machi Akira (note.com)
 


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