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 柝が鳴る~蔦重と写楽~①

 第1話
 チョン、チョン……。
 高く澄んだ柝の音が雑念を払いのけるように鳴り響く気がした。 
 蔦屋重三郎は腕組みした左手で顎をさすり、1枚の版下絵を睨んだまま頷いた。
(これで、一世一代の勝負だ)
 散々、迷った。店先で錦絵を片手に賛否に声が渦巻き、出資元の座元、何より役者連中から反感を買うかもしれない。山東京伝の洒落本3冊でお上から身上半減の厳しい沙汰を受け3年。歌麿の女大首絵で息を吹き返したのも束の間、書肆、耕書堂の前途に再度、暗雲が立ち込めるのも覚悟の上だ。
「よし」
 寛政6年4月、日本橋通油町、耕書堂の座敷の一室で、彼は躊躇、不安を断ち切るように独り言ち、中庭に目を向けた。
 春の日差しに椿の葉が照り、楓の新緑が目に優しい。手水鉢に1羽の目白が飛来した。小刻みに躰を動かしながら辺りを警戒し、鉢の水に飛び込むと、素早く羽ばたきして水飛沫を上げた。脇の梅の枝に飛び移り、躰を震わせ水を切っている。
「旦那、いらっしゃるんでしょう。いかがなされたんで」
 番頭の勇助の呼びかけに、蔦重は瞬きした。
「どうした」
「いえ、何度かお声掛けしても返事がなかったもんで」
「そりゃ、悪かったな。それで、何か用か」
「へい、歌麿さんがお出でで。旦那にお目にかかりたいとおっしゃっておりますが、いかがなさいましょう」
「歌か、しばらくだな。上がってもらいな」
 その版下絵をもう一度眺めると、蔦重は床の間の桐箱に入れた。
 2か月前のことである。
「折り入って頼みごとがありやして」
 額を畳につけると、歌麿は吉原遊郭を題材に新たな揃物の錦絵を手掛けたいと切り出した。大見世のお職を張る最上級の花魁から、お歯黒どぶ沿いに立ち並ぶ河岸見世の最下級の女郎まで描きたいという。
「花魁は分かるが、下賤な女郎なんぞ、なんで描きてえんだ」
「元を正しゃ、北国に生きる女郎は誰もが親兄弟の借金のかたや口減らしで泣く泣く、女衒に連れて来られた身の上でございましょう。廓での歳月が一人一人の女郎の運命を分け、運、不運に振り回されながらそれぞれ健気に懸命に生きている。女郎のそれぞれの生き様をどうしても錦絵に仕立てえんで」
「羅生門河岸、西河岸の女なんぞ、女郎のなれの果てじゃねえか。そんな下賤で醜い女郎を、これまでどこの絵師が描いたことがある。錦絵に仕立てたところで、銭出して買う物好きはいやしねえ。売れる見込みのねえ錦絵を版元が出すわきぇいかねえんだ。お断りだね」
 蔦重の剣幕に、歌麿は唇を噛み締め引き下がるしかなかった。
 広縁に足音が響き、障子脇で止まった。
「歌麿でございます」
「よく来た。さあ、中に入れ」
 藍地の鮫小紋の着流しに黒羽織、剃りあげた月代に髷をきちんと整え、今を時めく江戸一の浮世絵師の風情を漂わせている。
「蔦重の旦那様、ご機嫌麗しゅうございます。ご無沙汰しておりました」
「どうした、堅苦しい挨拶なんぞして」
「今日はご報告に参りまして。この度、版元・伊勢孫の計らいで、錦絵を仕立て、売り出せる運びになりました。ついてはご挨拶かたがた、忌憚のない意見を頂こうと思いましてお邪魔した次第で」
 傍らの風呂敷包を解くと、歌麿は一枚の錦絵を
「いかがでしょう」
 と、上目遣いに差し出した。
 蔦重は両腕を組んで、その女絵に魅入った。
 その女郎は両目を吊り上げ、左手で楊枝を咥え、胸をはだけている。北国五色墨と揃物名が入り、その脇に川岸とある。吉原遊郭の最底辺、お歯黒どぶ沿いに立ち並ぶ河岸見世で春をひさぐ女郎だ
 ーー忘れちまっちゃ困るよ、あちらもどっこい生きてるんでね。どうだい、旦那、遊んでいかねえかい
 その女郎が皺枯れ声で誘い掛けるような迫真性に富んでいる。
 もち肌から察するに雪国、越後の生まれか。運悪く貧農の家に生まれ、博打好きの親父のかたか、貧乏人の子沢山の末、口減らしの犠牲で吉原に売られただろう。なまじ愛らしい顔つきが災難を背負う羽目になった。
 一時は座敷持ちになったこともあるが、間男の甘言にほだされ、借金を積み重ね、挙句の果ては間口1間の切見世に身を沈める羽目になったのか。昼夜、一ト切百文で見知らぬ男の欲望の吐き捨て場にされる。いずれ不治の病の瘡毒を病んで苦しみ悶え、死に絶えた末に浄閑寺に投げ込まれるのがおちだ。
 苦界のどん底、不条理な世を恨み、理不尽さに抗う術もなく、それでも生き抜く女郎のふてぶてしさが描き尽くされ、圧倒される。
「なるほどな、これが歌の描きたかった女絵か」
「左様で。それで出来はいかがでしょう」
「てえしたもんだ。改めて感心したよ。私が手掛けた歌の揃物、歌撰恋之部に勝るとも劣らねえ。胸に秘めた女の想いを描き切れるのは天下広しといえども、歌よ、おめえしかいねえ」
 歌麿はしてやったりとほくそ笑んだ。蔦重は悔やんでいるに違いない。2か月前の提案を無下にし、競合する版元にさらわれたことを。
 蔦重は煙管の吸い口を咥え、2度、3度、煙を燻らせる。煙管の先を灰吹きにコツンと当てると、歌麿に鋭い視線を向けた。
「だけど、売れねえよ、この手の絵は。前も言ったはずだがな」
 歌麿は口元を歪めた。鼻を明かそうと挨拶に来た思惑をばっさり否定され、胸の内が波立つ。
「売れる売れねえより、ただ描きたかったんで。吉原で生きる哀れな女郎の胸の内をこの筆でどうしても」
「へえ、そうかい。そりゃ、絵師のわがままってやつだな。版元はそうはいかねえ、一枚でも多く摺り増しできなきゃ意味がねえ。売ってなんぼが、版元の力量なんだ」
 蔦重はまくし立てた。何が何でも次は勝負だ。折角、これまで育て上げた耕書堂の先行きを占う。売上最優先に気が急く。
「まあ、ついて来ねえ。見せてえものがある」
 蔦重は床の間の桐箱を手に持ち、歌麿を促した。
                       第2話に続く。

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