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小説「或る日の北斎」その1

 蒼穹の果てまで、富嶽が遠のく気がした。
(どうにもしっくりこねえ)
 葛飾北斎は筆を握りしめ、画帳を睨んだ。
 画幅中央に向け、日本橋川の川幅は急速に狭まり、それに呼応するように両岸に立ち並ぶ白壁の土蔵、川面に浮かぶ舟の姿も両隅から徐々に縮小されている。突き当りに千代田城、その左上に狙いすましたように富嶽を描き入れた。
 浮絵の技法を駆使し、平面な画幅に奥行感を持たせてある。
(構図は問題ねえ)
 川面と空は藍色で染め上げ、富嶽の頂の白雪、立ち並ぶ土蔵の白壁と対比させるつもりだ。
(色合いも申し分ねえはずだが)
 文政12(1829)年秋、朝五つを回り、江戸日本橋は向こう鉢巻きに天秤棒を担いだ魚売り、道具箱を肩に乗せた大工、物珍しそうに辺りを見回す浅黄裏の侍らの往来に加え、米俵や野菜を積んだ大八車や駕籠が忙しく行き交う。
 北斎は大きく溜息をつくと、画帳と筆を懐にしまい込んだ。両腕を組み、右手で顎先をさすりながら遠方を見遣った。
 富嶽が彼を見放したように、その中腹まで薄雲がかかり始めている。達成感のない後味の悪さが彼に重くのしかかった。
「おや、おや、これは北斎先生じゃございませんか。またひょんなところで。筆と画帳を手にしてたってことは写生ですか」
 北斎は突然、呼び止められ振り返った。
 町人風の若い男が愛想笑いを口元に浮かべている。傍らに同じ年頃の男が訝しそうに眉間に皺を寄せている。
「お忘れですか、先生。嫌になっちまうな。丑松ですよ、丑松。2年前、弟子入りした丑松ですよ」
「なるほど、丑松なあ、そんな男もいたな」
 北斎は瞬きを2、3度繰り返し、記憶の糸をたどった。深川木場の材木商の倅で、錦絵好きが高じて北斎の元に手習いに通っていた。
「私は今でも、先生に私淑してまして。北斎漫画、ありゃ、先生でなくちゃできません。毎回、欠かさず買い求めて、手本にしているんで」
「そうかい、そりゃ、ありがとよ。次も忘れずに買っとくれ」
 北斎は筒慳貪にあしらい、胸の内で自嘲した。
(あんなものは、万物事象を漫ろに描いたにすぎねえ)
 北斎漫画は17年前、尾張名古屋の門人・牧墨僊まきぼくせんを訪ねた折、当地の版元・永楽屋東四郎えいらくやとうしろうが「絵手本で売り出しましょうや」と刊行。版下絵の寄せ集めがどうした訳か、全国津々浦々の自称・門人らに受けているらしい。既に10編を重ね、北斎死後の明治11(1878)年に15編が発行され完結する。
「にらめっこの図なんか絶品だ。男の表情を緻密に正確に描くことで、面白みが滲み出ていて、思わず吹き出してしまいました。素人は他人を笑わせようとして描くから、逆に白けて駄作になっちまう。さすが、北斎先生だ。馬琴の読本が売れたのも先生の挿絵があったからこそで。今さらながら、全く恐れ入りやした」
 戯作者・滝沢馬琴たきざわばきんを引き合いに出されて、なおさら北斎は気分が滅入った。
 既に20年以上前になる。
 江戸の版元・仙鶴堂せんかくどう鶴屋喜右衛門つるやきえもんを介して、馬琴の読本よみほん小説比翼文しょうせつひよくもん」の挿絵を頼まれたのが縁だ。鶴喜から「馬琴の描いた下絵を仕上げてもらえればいいんで」と言われ、引き受けたのはいいが、馬琴は「下手に手直しするんじゃねえ」と高飛車に出た。北斎は「画の素人に口を挟ませるな」と絵師の矜持で版元に噛みつき、馬琴の指示を無視し続けた。互いに偏屈、頑固者同士ながら実力は認め合っていただけに、版元のとりなしで、その後も馬琴の読本新編水滸画伝しんぺんしすいこがでん椿説弓張月ちんせつゆみはりづき三七全伝南柯夢さんしちぜんでんなんかのゆめなどで腕を競い合った。
 「馬琴に負けじ」と意地を張って、墨絵の挿絵で新境地を開いた自負はある。一方で、「戯作あっての挿絵であり、馬琴あっての北斎ではないか」との懸念は胸中にわだかまっていた。「挿絵は所詮、刺身のつま程か」とさえ今は思える。70の齢を重ね、慙愧に堪えない。
                       その2、に続く。

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