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小説「或る日の北斎」その6

 西村屋与八、通称・西与が店主の永寿堂は、日本橋大伝馬町3丁目、鱗形屋三左衛門うろこがたやさんざえもんの林鶴堂、日本橋通油町、鶴屋喜右衛門の仙鶴堂などと並ぶ老舗の版元として知られる。初代は八頭身美人画の鳥居清長を世に送り出し、2代目は戯作者の柳亭種彦りゅうていたねひこを育て上げ、滝沢馬琴に「売買にさかしき者」と言われ、商売上手で鳴らした。現当主は3代目西村屋与八となる。
「ご承知の通り、お上の禁令が相次ぎ、版元の商売も先細りでして。まったく厳しい情勢なんですが、とはいえ、ただ指をくわえてみてるわけには参りません。このまま店が左前にでもなったら、先々代、先代になんとも顔向けができない。どうしても稼ぐ柱を作らなくちゃならないと胸に誓ったしだいでして」
「なるほど、それで錦絵の揃物ってことか」
「その通りで。錦絵は薄利ですが、揃物で数が出れば、利益はもちろんですが、永寿堂の株も昔のように上がりましょう」
「まあ、そうなりゃいいけどな。それにしても何で、錦絵で富嶽の揃物なんだ」
「先生ご承知の通り、吉原の女郎や歌舞伎役者の悪所絡みじゃ、何かとお上が猥雑だ、華美だ、とうるさくて仕方ありません。一昔前、蔦重つたじゅうがお上に目を付けられ、吉原題材の洒落本で身上半減の痛い目にあったことを覚えておりますか」
「そりゃ、覚えてらあ。蔦重には一時期、世話になったからな。町絵師じゃ、歌麿が太閤記の錦絵で手鎖50日食らって、死期を早めちまったものさ」
「そうでした。そこで富嶽を思いついたわけで。近頃、お伊勢参りが盛んで、旅のついでに周辺の風光明媚な景色を楽しむのが流行っておりましょう。日の本一の景色、風景と言ったら、一にも二にも富嶽をおいて他にありません。古より多くの画人に取り上げられ、例え拝んだことがなくとも馴染み深いし、縁起もいい。富嶽の千変万化を豪華絢爛に錦絵に仕立て上げればと考えた次第で。岷雪の百富士は旅日記の類でしょう。錦絵で勝負できるのは古今東西随一、天下無双の画技を身に着けた先生を置いて他にいない。そこで先生に白羽の矢を立てたわけです」
 西与は両目をぎらつかせ、自ら仕立てた青写真を滔々と述べ立てる。
 仮に刷り増しするほど評判になったにせよ、懐が潤うのは版元だけで、絵師の懐に入る画料は版下絵代にすぎず、たかが知れている。1枚、2分ほどか。西与の滑らかな弁舌が北斎の耳に空疎に響き、苛立ちさえ催す。
「発想は面白えが、売れる算段はついているのかい。富嶽三十六景と大見得張ったところで、鳴かず飛ばずで絵草子屋の平台に積まれたままじゃ、江戸中の笑いものになっちまう。こっちの沽券にかかわるんでね」
「おっしゃるとおりで。ですがね、先生、その肝心なところはちゃんと算盤を弾いておりますので、心配はご無用でございます。先生は大船に乗ったつもりで、画に専念頂いて下さい」
 西与は両目を細め、目尻に笑みを湛えた。
「まだ一枚の絵もできてねえのに、随分な自信だな」
「今度ばかりは、万に一つの失敗も許されませんので」
「意気込みは立派だが、取らぬ狸の何とかじゃねえだろうな」
「私も商売人の端くれでして。先ほど申し上げたように、今度ばかりは3代目として永寿堂の看板を賭けております。先生は筆を走らせて頂ければよろしいんで。画が仕上がれば、売り捌きは算段がついておりますので」
「そこまで言い切るなら、もう言うことはねえ。引き受けた以上、北斎の名に恥じねえ仕事はするつもりだ」
「分かって頂いて、本当にありがたい」
 西与は安堵の表情で、深く頭を下げた。
「どうした、いつまで頭を下げて。分かったと言っているだろうよ」
 北斎に催促されるのを待っていたかのように、西与は思案気な表情を浮かべ、北斎を見つめた。
「難しい顔して、まだ何か言いてえことがあんのかい」
「ええ、実は私の構想で、誰にも話しちゃいないんですが。先生に隠し立てしてもしょうがないんで」
「何でえ、随分と思わせぶりな口ぶりじゃねえか」
「本当にここだけの話ですよ、先生」
「分かっていると言ってるだろう。誰にも漏らしやしねえ」
「この富嶽図の揃物は当面、36図ということで。評判にもよるんですが、もっと描いてもらうつもりでして」
「まあ、売れりゃ、1図や2図は付け足しもあるだろうよ。そりゃ当然だ。逆に評判悪けりゃ、揃物は途中で打ちきりだからな」
「おっしゃる通りで。でも、私の頭にあるのはもっと壮大なんで」
「36図に、場合によっちゃ追加もあるってことじゃねえのかい。回りくどくて、言いてえことがよく分かんねえ。旦那、はっきり言いねえ」
「少なくても4、50ってことはねえでしょう」
「じゃあ、60、70も描けってのか」
「先生、お言葉ですが、あの岷雪でさえ101図なんでしょう。江戸一の絵師、北斎でしょうが」
 西与は右手で手元の風呂敷包みをポンと叩き、北斎に突き返した。
「何、岷雪以上、描けとか」
「そうしてもらいたいんで」
 西与は煙管を灰吹きに叩きつけた。
「先生、一世一代の勝負をしようじゃありませんか」
                        その7、に続く。

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