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小説「北斎逍足」⑫

 第12話、
「講元、今月分の積立金をお持ちいたしました。お確かめください」
 板元・西村屋与八は世話人の1人、与兵衛の差し出した勘定帳と銭の入った袋を受け取った。
「ご苦労様でした。来月もお願いします。くどいようですが、くれぐれも内密にお願いしますよ」
「それは重々分かっております。お上の目がありますから」
 富士講は開祖・角行の死後、6代目の行者に当たる食行身禄によって普及する。
 食行身禄は享保18(1733)年、富士山7合5勺の烏帽子岩で断食行を決行し入定。食行身禄の教えを受け継いだ愛弟子の高田藤四郎が元文元(1736)年、講組織・身禄同行を起こし、以降、江戸八百八講と比喩されるまでに庶民の間に急速に広まっている。
 一方、幕府は社会秩序を乱す懸念から再三、町触を出し、取り締まりを強化していた。
「今年は講員30人が無事、富士山に代参することができました。来年が楽しみでございます」
「そうですか、来年は確か与兵衛らの番ですね。それまでせいぜい、仕事に精を出しなさいよ」
「へい、分かりました」
 与八は版元永寿堂を営む一方、自ら講元として西与講を取り仕切っていた。講員総数150人で、毎年30人、5年で全員が富士登山を完遂できる。費用は各自月掛けで講金を拠出していた。
「秋になりゃ、御師様がまた講社回りにお出でになります。来年夏の登拝の手配等もよろしくお伝え下さい」
「そうでした、初穂料も用意して置かねえと。いろいろ手土産も頂きますし、返礼も用意しなきゃいけねえ」
 西与講の世話になる御師は富士吉田の石山太夫家で、夏の富士登山の際の宿泊施設になっていた。
「手土産といや、御師様は毎年、旦那の店で錦絵をまとめ買いされます。江戸土産として、地方の講社回りで大変喜ばれているようで」
「また売れ筋の錦絵を摺り増しして置かなきゃならねえ。豊国の美人絵、役者絵あたりなんだが、昨年と代わりばえしねえし」
 西与は煙管に手を伸ばし、刻み煙草を詰め始め、
「何か、いい錦絵はねえもんか」
 と、溜息をついた。
「講元、どうです?富士講向けの錦絵ってのは」
「そりゃ、どういうこった」
「江戸八百八講、講中8万人といわれ、江戸だけでも相当の信者を数えるわけで。関八州、甲斐に駿河、遠江と富嶽を拝める周辺も加えたら、買い手は尽きねえでしょう。私ら信者が思わず手に取ってしまうような、そんな錦絵を売り出したらいかがで」
「そりゃ、お前さんに言われるまでもなく常々考えちゃいるんだが……。富士講なら富嶽だろうが、ただ描いても売れるわけじゃねえし」
「講元のおっしゃる通りで。富嶽の図は誰もが見慣れてるし、それにどれも似たり寄ったりで」
「富嶽は日の本一の山だ。厳然かつ秀麗、四季折々に織り成すその姿に見惚れねえやつはいねえ。古今を通じ幾多の絵師が手掛けちまってるからな」
 西与は観念したように煙管を咥えると、火入れの炭で火を付けた。
「まあ、確かに新しい富嶽図ってのは難しいんでしょうが、それにしても富嶽にもいろんな顔があるはずで……。例えば日本橋と相模から眺める姿は違うし、版元がおっしゃったように春夏秋冬、季節ごとに違う顔を拝めるわけで。寄席で評判の三笑亭可上の百眼じゃねえが、富嶽の1百の表情ってのは面白かねえですか」
 与八は一服、白い煙を吐き出すと、煙管を灰吹きに叩き付けた。
「与兵衛、今、お前さん、何と言った?」
「富嶽の百の顔ですかい」
 与八は徐に立ち上がり、早足で座敷を出て行った。しばらくすると、1冊の冊子を手に戻ってきた。
「ちっと、これに目を通してくれ」
 表紙に「百富士」とある。与兵衛は手元に引き寄せ、1枚、1枚、捲った。武蔵野、日本橋、駿河町と、江戸市中などから眺めた富士の様々な姿が描かれている。
「河村岷雪って絵師の冊子だ。どうだ、この富嶽は」
「講元、これですよ。これを錦絵に仕立てたら面白え」
                          第13話に続く。

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