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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑧

  第8話
 江戸三座は11月の顔見世興行で一年の幕を開ける。役者は座元と1年の専属契約を結ぶ習わしで、この先一年の興行の先行きを占う重大事だ。役者絵を商う地本問屋は3座と一蓮托生であり、競うように役者絵を仕立て主導権争いに火花を散らす。
(はて、どうしたものか)
 座敷の蔦重は中庭に目を転じながら、独り思いを巡らせている。楓の葉先が赤く色づき、時折、近くの社叢から百舌がけたたましく鳴き声を響かせ、彼の気持ちを急きたてる。
 顔見世興行に賭ける蔦重の思いは計り知れない。役者絵の制覇、引いては耕書堂の浮沈がかかっている。もう失敗は許されない。
 座元、役者衆からの資金提供はついに途絶えた。自前で資金を用立てし、店頭売りで一枚でも多く捌く必要がある。
(万人受けするには、人気役者か)
 市川海老蔵、岩井半四郎、山下金作らの立ち姿が脳裏に浮かぶ。当然、豊国ら他絵師も手掛ける。
(差別化するには……やっぱり数で勝負しかねえか)
 五月、写楽の奇想天外ともいえる大首絵が28図も店先に吊るされ、江戸っ子の度肝を抜いた。幕府の統制強化で役者絵が低迷していただけに、その衝撃は一層、増幅された。数は力とばかり、夏にも38図を刊行し、他の版元を圧倒している。蔦重にとって正念場の顔見世興行であり、前回以上は規定路線だ。
(数摺るとなるとまた細版か、一工夫しねえと)
 これまでの2度の失敗で手元の資金が乏しい中、大判は断念、雲母刷りも施すことはできない。夏と同じ細版中心となるだけに、目新しさが欲しい。
(彫師も摺師も早めに手配しちゃならねえし、とすると、中見は無理か)
 顔見世興行初日の11月1日に合わせ、各版元は役者絵を揃えるため、必然的に彫師、摺師らの職工が手不足となる。蔦重がこれまで多くの役者絵を一斉刊行できたのも、裏を返せば繁忙期を避けたからで、彼の戦略でもあった。
 浮世絵の仕立ては絵師が版下絵を描き、彫師、摺師と流れ作業で引き継がれる。摺師、彫師を揃えたところで、版下絵が用意できなければ作業は進まない。他の版元を出し抜くため、数多くの役者絵を興行初日の店頭に並べるには、中見、つまり実際に舞台を観て版下絵を描くのでは到底、間に合わない。出版済みの錦絵などを参考にした見立で仕上げることになる。
(果たして、写楽がこなせるか)
 所詮は能役者の余技で、写楽は町絵師の下積みが皆無だ。親方に怒鳴られ殴られ、段取りを叩き込まれていない。絵師になりたい欲と淡い期待でこれまでどうにか踏ん張ってきたが、頬は痩せこけ、両目は落ちくぼみ、傍目にも疲労困憊に陥っているのが分かる。
 ーー大首絵をもう一度、描かせてほしい
 写楽の必死の形相が、ふと脳裏を掠めた。
 元より、大首絵を再度、前面に打ち出すつもりはない。資金提供を断った座元らに既に義理立てする理由はないが、先祖返りと陰口を叩かれるのは版元の沽券に関わる。ましてや疎遠となった歌麿の注文に耳を貸すいわれもない。ただ、写楽のやる気を削ぐわけにはいかない。
 何げなく中庭に目を転じると、2羽の四十雀が楓の枝先を飛び回る。お互いをけん制するように、時にはじゃれつくようにも見える。
 蔦重は右手で膝を叩いた。慌てて店に急ぐと、番頭の勇助に命じた。
「鉄藏を呼んで来い」
                        第9話に続く。
 


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