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柝が鳴る~蔦重と写楽~③

  第3話
 初夏の陽光が降り注ぎ、燕数羽が澄み切った青空を縦横に飛び交う。
 寛政6年5月、日本橋通油町、書肆・耕書堂の店先は黒山の人だかりとなった。写楽の役者絵28枚が一斉に軒先に吊るされ、芝居好きの町人らがそれらの錦絵を指さしたりしながら、好き勝手に批評し合っている。
「一挙に28枚、しかも豪勢に黒雲母刷りとは、たまげたねえ。さすが蔦重、てえした気構えだ」
「よくもまあ、こんなに醜くけったいに仕上げたもんだ。役者連中に断りは入れてあんのかい。とても銭出して買う代物じゃねえ」
「いいねえ、千両役者を手玉にとって。東洲斎写楽ちゃ、聞いたことねえ絵師だが、いい腕してるじゃねえか」
 店座敷の奥、蔦重と番頭の勇助は店先のにぎわいに一喜一憂している。
「賛否こもごも話題にはなっちゃいるが。さて、売れ行きはどうなってる」
「それがちっと芳しくないんで。幸先はよかったんですが、日を追うごとに落ちているようで。店頭売りが思いのほか不調でして。とりわけ女連中に不評のようで」
「収支はどうにかなりそうか」
「何とか、とんとんにはなりそうですが、三座、役者連中の資金提供がなかったらと思うとまったく冷や汗もんで。小憎らしんですが、甘泉堂の方は盛況のようでして」
「豊国が受けているってことか」
 勇助の報告に、蔦重は舌打ちした。用意万端、命運を賭けた勝負で敗色濃厚だけに苦悩は深い。
 豊国は歌川派の新進絵師で、今年正月以降、揃物「役者舞台之姿絵」として河原崎座の市川門之助演じる曽我十郎を皮切りに、三月都座、三代目市川八百蔵扮する下部初平らの立ち姿の役者絵を次々と世に送り出している。写楽の思わぬ不評を尻目に、版元の甘泉堂、和泉屋市兵衛が高笑いする姿が目に浮かぶ。
 蔦重こと蔦屋重三郎は寛延3年正月7日、江戸吉原生まれ。23歳で新吉原大門口の五十間道沿いに店を構え、吉原細見の小売りを始めた。吉原遊郭での接待外交で育んだ戯作者、浮世絵師ら多くの人脈を生かし、浮世絵、黄表紙、洒落本などを相次いで刊行。その後、老舗版元が鎬を削る日本橋に進出後、歌麿を登用した狂歌絵本で世評をさらった。
 巧思妙算の才覚で押しも押されぬ地本問屋にのし上がったのも束の間、3年前、山東京伝の洒落本三作で禁令に触れ、身上半減の憂き目を見た。幸い歌麿に描かせた大首絵の女絵が大当たりし一息ついたが、肝に銘じた日の本一の書肆はまだ道半だ。役者絵で躓くわけにはいかない。
 突然、店先から歓声が上がった。広縁に足音が響くと、
「旦那、大変です」
 手代の与吉が襖を開けた。
「何だ、断りなしに開けて。いってえ、どうしたってんだ」
 番頭の勇助が与吉の無作法をたしなめた。
「申し訳ありません。それが、座元の石部勘助殿と役者の松山菊之助殿がお出でになりまして、旦那に用があるとすごい剣幕で捲し立てていまして」
「そうかい、上がってもらいな」
 来客の用件は織り込み済みだ。蔦重は、余計な口を挟まぬよう番頭の勇助に目配せした。
「まったくどういうつもりで、今度の役者絵を仕立てたんだい。折角の興行に差し障るじゃねえかい」
 座敷に腰を落ち着けるなり、座元の石部がこめかみに青筋を立てて、蔦重に噛みついた。
「写楽の錦絵でしょうか、何か不都合でもございますかい。ご覧の通り、店先でも評判になっておりますが」
 蔦重は務めて平静に受け応える。賛否は世の常で、どう仕立てて売り出すかは版元の裁量で口を挟まれるいわれはない。下手に出て相手の要求を簡単に飲めば、今後の商売に支障をきたす。
「蔦重の旦那、私らに喧嘩を売るおつもりかい。こんな錦絵を描かれちゃ、客足が遠のき、商売に影響が出ると言ってんだよ」
「お言葉ですが、豪華な黒雲母刷りの手間暇かけた仕上げで、江戸っ子が驚く役者絵に仕上がっているはずですが」
「おっと、待ってくれ、驚いたのは私らだ」
 役者の松山菊之助が片膝を立て、
「不細工な女形にしやがって。恥ずかしくて舞台に上がれねえじゃねえか。写楽ってのはどうしょうもねえ、素人じゃねえのか。まったくどうしてくれるんだい」
 と、舞台で見得を切るようにすごむ。
「写楽の腕は確かです。私、蔦重が満を持して筆を握らせた絵師でございます。これほど革新的で真に迫った役者絵がございましたか。これまで数多の絵師が、数多の役者を描きましたが、写楽の役者絵は唯一無二でございましょう。後世に引き継がれる逸品と確信しております」
「つべこべ能書きは聞きたかねえ。描き直してくれえ」
「そりゃ、無理な注文です。何度も申し上げたように、私どもは自信をもって世に送り出した錦絵ですので」
「なんだと」
 蔦重の頑なな姿勢に、松山菊之助は両目を吊り上げ、右手で立てた膝を叩いた。
「止めときな、菊之助。この旦那は聞く耳を持たねえようだ」
 座元の石部が今にも蔦重の襟元を掴もうとした菊之助を制した。
「蔦重の旦那、あんたの考えは分かった。ただ言っておくが、今回の揃物の発行に私ら座元、役者連中が資金提供したことを忘れてもらっちゃ困る。今後の付き合い方は考えさせてもらう。覚えておきな」
 座主の石部ら2人は憤然と立ち上がり、座敷を後にした。
                            第4話に続く。


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