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小説「或る日の北斎」その5

 その古書の題箋には百富士と墨書きされている。
 中身は見なくても推察できる。今の北斎にとっては禁断の書とも思えるその存在に心がざわつく。その動揺を悟られまいと、彼はすんなりその1冊に手を伸ばし、1丁、2丁とめくり始めた。
「明和4年ですから、かれこれ50有余年前、河村岷雪かわむらみんせつっていう男が刊行したものでして、若い頃から旅先で描き貯めた富嶽の姿を101図、中には古書から写し取ったものも入っているようですが。いかがですか、なかなか面白い趣向じゃございませんか」
「旦那はその河村とかいう男を知っているのかい」
 北斎は古書に目を落としたまま尋ねた。
「否、全く面識もございません。江戸の男らしいんで、消息を調べやしたんですが、皆目見当がつきません。もう亡くなっているようで」
「そうかい、死んじまってるのかい」
 北斎は西与の話も上の空で、その1図、1図に引き込まれていった。
 芒、萩の生い茂る秋の武蔵野の原野に富嶽が悠然と聳え立ち、もう一図では日本堤を吉原に急ぐ男衆を嗜めるように富嶽が遠方から見下ろす、太鼓橋の橋下から愛嬌良く顔を覗かせる富嶽もある。春夏秋冬、田園、山間、海辺、川沿いと各所の風景も巧みに取り入れ、旅人や農民の姿も添えられている。
 墨絵で絵は粗雑だが、西与から依頼された揃物を仕上げるには示唆に富み、最適な資料の一つであるに違いない。
(否、この趣向以外、富嶽を36図も描き切る手法はあるのか)
 岷雪の各図が重く両肩にのしかかり、藻掻けば藻掻くほど底なし沼にはまり込むような感覚に北斎は襲われ始めた。模倣の誘いが止めどもなく募る。押しとどめようとすればするほど、自問自答を繰り返す。「ほかに手立てはあるのか」と。
 やがてその呪縛に抗うかのように、彼の胸底にじわりじわりと憤りが滲みだし、口をついて溢れ出た。
「旦那、この冊子をあっしに見せて、一体、どうしろってんで」
「えっ、先生、何か私が気に障ることでも。私はただ、先生に参考にして……」
「参考にだと、あっしに人真似しろって指図ですかい」
「待ってくださいな。何をおっしゃるんで、滅相もございません。先生、何か勘違いしてもらっちゃ困ります。富嶽の揃物、しかも36図も無理にお願いした手前、少しでも参考になればとお持ちしただけで。何の魂胆もございません。全く私の不手際で申し訳ない。何卒、御勘弁下さい」
 思わぬ北斎の激怒ぶりに、与八は面食らった。両手を畳に付け、額がこすれるほどに頭を下げた。
 北斎は過剰反応したことを悔やんだ。咎めたてるほどの話ではない。今朝、日本橋でのやくざ者の一言が胸の奥底に種火として残り、風向き次第で炎上寸前だったことを彼は悟った。
「そうかい、そんならいいんだが」
 北斎は顔を逸らし、呟いた。
「先生、誠に失礼しました。この古書は持ち帰りましょう」
西与は北斎の手元から古書を引き寄せると風呂敷に包み、帰り支度を始めた。
「ところで、旦那……」
 北斎が気まずい雰囲気にくさびを打ち込もうとすると、その機会を逃すまいと西与が話に乗ってきた。
「何です、先生」
「いずれにしろ、とりあえず1、2枚は版下絵を仕上げなきゃならねえだろう」
「そりゃ、先生にそういってもらえると、まったくありがたい話で。先生、まだ少し時間を拝借してもよろしいですか。こっちにも事情がありまして、先生にもそこんところは少し斟酌して頂きたいと思いまして」
 与八は商人らしい機敏さで、話頭を転じた。
                         その6、に続く。

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