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サワガニの話

ある雨の夜、身に覚えのないインターホンがなり恐る恐るカメラを覗くと
部屋着のような格好をした隣人が立っていた。
月に2度ほど、ゴミ捨て場で挨拶を交わす程度の関係で
名前も職業も知らない彼女が私になんのようだろうか。少し怪しく思ったが
窓の外から聞こえる雨音が強くなったこともあり、ひとまず玄関に通すことにした。面と向かって話すのはこれが初めてだったので背筋が伸びるような気持ちになった。

玄関に上がった彼女がひとこと
「貰ってくれませんか、サワガニ」と。

私は自分の耳を疑った。そして脳内でもう一度彼女の声を再生してみた
しかしながらやはり先ほどの彼女はそう言っていたのだ。

「すみません、いきなりこんな格好で押しかけてしまって」と続ける彼女
でも今の私に彼女の声は届かない。彼女が手にしているパックの中でカサカサと動くものが気になって仕方がなかったのだ。
サワガニは元気に動いている

話を聞くとマンションから徒歩5分のところにある私も行きつけのスーパーで、生きたサワガニが売られていて思わず買ってしまったのだそうだ。そして帰り道の途中で自分がカニアレルギーだったことを思い出し、飼うことを考えるもマンションがペット不可なこと、家を開ける時間が多く寂しい思いをさせちゃうといけないからと、私に譲ることを決めたらしかった。振り返ると、一方的で随分と身勝手な話だが、そうそうない状況に心を躍らせる自分もいた。
ポップに素揚げがおすすめと書いてあったことや、パックの中を自由に動き回る姿が可愛かったことなどコロコロ表情を変えながら話す姿に、彼女と以前から友達だったかような錯覚に陥りそうになる。
サワガニは元気に動いている
そんなに長い間話したわけではないが、彼女が無類の生き物好きであることと、どうしようもないほど天然なことがひしひしと伝わってきた。

散々一方的に話し続けた彼女だったが、玄関の置き時計を見てもうすぐテレビの時間だからと言い残し、帰って行った。
サワガニは元気に動いている
彼女が帰って、しばらくはふわふわした気持ちだった。
小学校低学年の絵日記なら嬉しかったです。
で終えてよかったが、大人になった以上もう少し工夫のある、今の気持ちに沿った気持ちをずばり言い当てたかった。が難しい。

私はただ彼女の自由さに驚かされ、そして羨ましく思ったのだ。
今の感動を少しでも残したいと思った木曜深夜。


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