2020年7月29日(水)

 今日も太陽は見えない。家を出る時、涼しい空気の中でセミの泣き声が空々しく響き渡っていた。通勤途中にたまたま友人と出会ったので、少し散歩をしてから出勤した。

 安楽死について、少し世間で騒がれていたのでナイーブな問題だが書いてみたい。自分の命をどうするかどうかというのは、とことん深く考えたことがないので、自分一人で自分の命をどうにかする場合の安楽死(自殺も含めて)についてはここでは触れない。

 世間で問題になっていたのは、どちらかというと他者の命をどう扱うかということだったのではないだろうか。差し当たってすぐに生き死にに直結しない状況下で、一個人もしくは集団が他者の生を評価して幸不幸、要不要を判断するようなものについては、私は反対だ。災害に巻き込まれたりといった、緊急事態下のケースについてはここでは考えない。


https://note.com/hitotsumori/n/n149e69f4feb9

 以前、上の記事でちらりと触れたが私の息子は出生と同時に死にかけた。その際に小児医療の最前線とでも言うべきPICU、NICUの中を見ることになった。そこには、様々な障害を持った子供達とそれを支える家族の姿があった。皆、それぞれに辛さを抱えていたことは確かだし、綺麗事ばかりではないことは身に染みて体験したが、それでも子供の命が一日でも長く続くことを願っている人ばかりだった。

 私が優生思想に少しでもかぶれた事がなかったかと言えば、10代後半を振り返るとそんなことはとても言えないのだが、愚かな私も実際に子供を育て、二人目の子供を持つにあたってそのような経験を経て、全ての命は基本的にその炎が燃え尽きるまでは何人にも奪われるべきではないと実感を持って考えるようになった。

 以下のような小説も書いた。


 私は無宗教で死後の世界も信じていない。幼少の頃のある一時期、やたらと死を恐れたことがあった。なかなか眠れず、何も考えないようにしよう何も考えないようにしようと考えるうちに、この暗闇はなんだろう、死んだら全てはこの暗闇になってしまって、何も考えないようにしようとすることすら考えられなくなってしまう。そう考えて戦慄したことを今でも憶えている。よくもまあそんな恐ろしい考えにたどり着いたと我ながら思う。

 実際、人が死ぬとはそういうことなのだろう。

 生きていれば、人生は無意味だと思うこともあるだろう。だが死の前には無意味だという価値すらない。完全なる虚無だ。それでは寂しすぎるから、耐えられないから人は様々な物語を紡いできたのではないだろうか。

 話がズレたが、人が死んでしまえば、その当人には何も残らないのだ。人の命というのは、暗闇に光るひとつの光だ的なことを宮崎駿がナウシカに言わせていたが、そのとおりだと思う。一度生まれて何かを感じられる、いや何も感じられないとしても、肉の塊でしかなかったとしても、それが存在する宇宙的観点から見れば、ほんのわずかでしかない。そのほんのわずかな時間だけは、何者も他者にその命を奪われるべきではないのだと私は思う。

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