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助成金から考える、事業の「純度」のはなし

最近、あいちトリエンナーレに対する文化庁の助成金不交付が話題だ。

7800万円の全額を不交付というインパクトは、運営側には甚大なるものだと想像に難くはない。(個人的には、金額の大小ではなく、全体運営費の何%なのか気になるとことだが)

私はアートに関しては素人なので、この件に関してどう着地すべきかに言及するつもりはない。運営側に配慮が足りなかった部分もあるだろうし、文化庁側の後出し感もいなめない。おそらく、双方の歩み寄り不足と、そうできない状況を作ってしまったこと自体に問題があったのだろう。(と、想像でべき論を語ってもしょうがない)

現場と行政のヒエラルキー問題

一方で、この件に関して気になったのは、新しいチャレンジを追求しようとした現場と、それを支援する国・自治体(=行政と言い換えます)という構図である。
発言している全員ではないにしろ、 現場 > 行政 という一種のヒエラルキーを盾に議論を展開している例も見受けられる。

地方でも、行政からの助成金や業務委託を受けている人がたくさんいる。中には、やってやってる、行政ではできないことだ、という議論を目にする機会もあり、それはそれで的を得た事実の場合も往々にしてあるのだけど、もらってるの「税金」だよね?と突っ込みたくなる場合もある。

「現場」の重要性は、地域でゲストハウスを運営する身としてもちろん認識している。しかし、そこは単なる機能や役割分担の話であって、ヒエラルキーを持ち込んではいけないと思うのだ。

もちろん、活用できる制度は活用すべきだと思うし、自分でも何回もお世話になっている。ただしそこには、お金を自分たちに預けてくれた行政と、間接的にそのお金を払っている国民への「リスペクト」が必要だという話だ。

事業の純度

前にある人から事業の「純度」に関する話を聞いた。お金にも「色」があるよ、と。誰からもらったお金かで事業にもその「色」がつく。だから安易に目の前の話に乗ってはいけない。事業を構成するお金の「色」にもこだわった方がいい、という趣旨の話だったと記憶している。

タダより高いものはない、と昔から言うように、お金をいただく立場には一定の対価責任が伴う。それは場合によっては事業への発言権だったり、株であれば配当金になるわけである。

事業を創っていく過程で、自分たちのやりたいことが外的要因によって実現できないときほどフラストレーションがたまることはなく、また、持続性を奪う要素はないと思う。

一般的に、事業を立ち上げ、持続させるためには一定のお金が必要である。それを集めるために日々どの事業者も奮闘しているわけだ。
もちろん、目の前の社員さんやチャンスのために急ぎの資金調達が必要になる場合もあるので、最初は理想論の一つとしてこの話を頭に入れていたのだが、どうやらとても普遍的かつ重要な判断基準だと、最近感じるようになった。

前段の助成金の話と合わせて考えると、助成金を使えば、その事業には「国民の税金」という「色」が付く。それに見合う対価を返せなければ、もしかしたら今回のように「不交付」という最悪の可能性もあるだろうし、行政に「借り」をつくってしまえば、長期的に行政から横槍が入り続けても文句は言えないだろう。

問題の本質とはずれるものの、今回のあいちトリエンナーレの件は、自分にとっては「戒め」であり、いかに自分たちがやりたい方向性を長期的に貫けるか、それを左右する重要なファクターとして、事業の純度とそれを構成するお金の色について、改めて意識する機会となった。

最後に、ここまでの話は、助成金自体が悪という趣旨ではないので、助成金を使ってでもブーストさせなければいけない時と、自分たちの純度を保つためには助成金が足を引っ張るケースとが存在することをしっかりイメージした上で、目の前のお金に手を出すかどうか、苦しくても持続的な可能性に向かう決断をこれからも選択していきたいと強く思います、というお話でした。

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