お花

❝そこには悪意というより、単なる無知さしか感じなかったんですが、見逃すわけにはいかなかったんです❞

ウェブ上で公開されている記事というのは、どんなに大切なことが書いてあっても、どんなに読んだときに心打たれても、残念ながら流れていってしまう。

もちろん別の場所に別の形で留めておけばよいのだけれど、その作業をするのも手がまわらないことが多い。

それでもどうにか、自分の言葉を付記してシェアすると、あとで記憶から引っ張りだせる。強く印がつく。だからわたしは、「これは」と思うものは、コメントをつけてシェアするようにしている。短くても自分で創出した言葉ならば、記憶に残ってくれる可能性が高い。

それに、わたしがどういう思いで、どういうポジション(立場・立ち位置)からその記事をシェアしているのかがわかったほうが、目にした人が受け取りやすいだろうとも思っている。ポジショナリティを明確に。発信者の責任として。また、そういう習慣をつけていくことが、自分の軸をつくっていくことにつながる。

わたしの場では、「受け取った人が自由に判断したらよい」という突き放したものではなく、「まずはこのような設定や視点で観察して感じたことを言葉にしてみよう」ということを大切にしている。鑑賞とはただ見るのではなく、自分を通過させ、人の前で表現すること、と伝えている。

ゆえに、「シェア」を押したくなっても、反射的ではなく。
中身を確かめ。クイックにしない。しそうなら見ない。
してしまっても自分を責めない。ただ、ふりかえる。

すべてはつながっている。
正しさではなく、誠実さ。自分にも人にも。
まず自分自身がその体現であるように、鍛錬を積んでいる。


この記事もそのように考えて、シェアしたものの一つ。2019年2月。


ちょうど先ほど、ふとしたきっかけで、この記事に出てくるフレーズがフラッシュバックした。

❝そこには悪意というより、単なる無知さしか感じなかったんですが、見逃すわけにはいかなかったんです。❞

慌てて記憶を頼りにシェアの痕跡を探したら、なんとか辿り着けた。ホッとしている。


あの記事が、あの言葉が今必要なんだ!と渇望したのは、こんなエピソードを急に思い出したからだ。

2年前にあったこと。ネット上で、差別の言葉が含まれた投稿を目にして、思わず息が止まりそうになった。発信したのは知人で、年齢的には「子ども」だった。投稿自体は100文字にも満たない、何気ない呟きだった。

また、3年前にもこんなことがあった。子どもを対象にした集まりで、主催者の一人が、旅行先で知らずにゲイバーに入り、男性から声をかけられたときのことを、「ホモ」「オカマ」という言葉を使い、おもしろおかしく子どもたちに話して聞かせていた。そしてそれを聞いていた保護者の一人が「ホモは病気だ、気持ち悪りぃ」と子どもたちもいる中で吐き捨てるように言った。

わたしはそのどちらのときにも、何もできなかった。ただ驚き、衝撃を受け、動悸がしているのを感じていただけだった。
それ以来ずっと、あのときどんな行動が起こせたのかと考えている。

これだけではなく、他にももっとたくさん、自分に対して起こったことでも、流してきてしまったことがある。何かができたときのほうが少ない。思い出すと、自分が悔しくてならない。


「誰も暴力の加害者・被害者にならないために、わたしたちには何ができるか」ということを折に触れて報道や書物やシンポジウムやイベントに「参加」して考えるわけだが、「する」機会は、日常にあふれている。むしろ特別な時などほとんどなく、些細な瞬間の連続といってもいい。

子どもたちの中にあるジェンダーバイアスを是正する積み重ねを低学年のうちから、ちまちまとしていかなければいけないんです。性の多様性に関する授業の指導案に沿って授業をすることも大事だけれど、こういう日常における積み重ねってとても大事です。

この方の言葉に励まされる。


11月に参加した性暴力に関する上智大学のシンポジウムでも、いくつかお守りをもらった。

・「NO」「やめなよ」と言えないときにも、「え、今なんて言ったの?」と聞き返すだけでも十分に効果がある。
・その場で言えなかったとしても、言えなかったことをなかったことにせず、あなたのポケットの中に入れておいてほしい。次は言えるかもしれない。

詳しい内容は、友人のまゆみさんのレポートをぜひ読んでいただきたい。


感じたことを、考えたことを、自分を主語に、言葉にする。

ただそれだけのことなのだけれど、「そこから逃げないでいる」「ここまでは考えた」という事実が、あとあとまで自分を支えてくれる。


ポケットに入れたのは、後悔でも怒りでもなく、尊厳。