『子でも殺されたのか?』2023-05-29

「○○に親でも殺されたのか」という定番の煽り文句がある。何かに激しい敵意や憎悪を燃やしている人に、その過剰な感情を揶揄する台詞だ。
 おそらくは「親の仇のごとく憎む」という古くからの慣用句が、ネット用に口語表現化して使われるようになったものだろう。

 我々はふだんこの言いまわしを、特にその意味も深く考えずにネットで使っている。ちょうど「馬鹿」という単語を、その言葉の起源(秦の二世皇帝胡亥と趙高のエピソード)を知らない人であっても、「馬や鹿がなんの関係があるんだ?」と悩まないのと同じである。

 しかし冷静に考えてみれば、「親でも殺されたのか」というこの言い回しは現在の価値観からは不自然な点を含んでいる。

 なぜ「家族を殺されて犯人への憎悪に燃える人」の代表が「親を殺された子」なのだ?
 逆ではないのか?

 というのは、犯罪がらみの”被害者の声”特集などで「加害者が裁かれない苦しみ」をインタビューで語るのはほぼ毎回「子を殺された親」たちであって「親を殺された子」ではないからだ。
 皆さんもネットやリアルで、自分の正義感をアピールしたい一般人が得々として語る「犯罪への憤り」の定番台詞で、こういうのを聞いたことがあったのではないだろうか。

「もし自分の子が殺されたら、私が自分で犯人を殺す」

 キリッ、てね(笑)
 私の親も言っていた。どうせやりもしないくせに。

「どうせやりもしない」のは私の親だけではない。もしも本当に「自分の子を殺されたことによる復讐殺人」などが起こったらマスコミは大喜びで飛びつくはずだ。
 しかし日本でさえ1000件近くの殺人事件が年間に起こっているが、そのような事件はついぞ報じられていない。

 もしも、若い世代が特別犯罪被害に遭いやすいということであれば、「子を殺された親」が被害者遺族の代表的ペルソナとなることにも合理性があるが、上記の表を見ていただければわかるように、別段そんなことはない。
 ちなみにこれでもかなり急速に減っている。言い換えれば、少し時代をさかのぼるだけで急増するということだ。

 しかし「もし私が『親を』殺されたら私が犯人を殺す」ではないのだ。奇妙なことに現代において憤りアピールとしての「家族を殺されての復讐心」は明らかに「子を殺された親」を前提としている。

 しかしかつてはそうではなかったのだ。
 「古くからの慣用句」においては、家族を殺された深い悲しみ・怒りを持つ遺族の代表的な人物像は「親を殺された子」だったのだろう。「子を殺された親」ではなく。
 古い時代にあっても、家族を殺された復讐物語の多くは、親を殺された子(もしくは疑似的な親である主君を殺された家臣)のあだ討ちであった。

 私はこの理由を次のように考えている。
 封建的な前近代の社会においては、子が親にその愛情・忠誠心ををアピールすることが生存戦略上必要であった。彼らはまさに子の生殺与奪の権を握っていた。
 しかし、現代においては親が子に対する愛情を実際以上にアピールする、いわば「恩着せ」が重要になってきているのだ。

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