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トラウマを回収したい話。

3月のある日、地震の夢で目が覚めた。

夢の中でも地震の夢を見ていて、起きた時はどこまで夢か現実か、揺れてる?揺れてない??としばらく混乱しました。

ありません?夢と現実がわからなくなること。


2月にもすこし大きな地震がありましたね。

わたしは東日本大震災の被災地の人間でもなければ、地震がホントに怖くてだめ。といったような事もないのですが、その日はどうしたことか、ウチに来ていた友人達の前で泣いてしまいました。(お酒が入っていたというのもあるかも知れませんが…)

それにはもっと、個人的な、過去の経験があります。


10年前、わたしは高校一年生でした。

その日は期末テストか何かだったのか、早く学校がおわって友人達と駅前のカラオケに行っていました。

「え?この揺れヤバくない??!」となって部屋を出ると、他の部屋からも同じ高校の生徒達が同じように出てきていました。

そのまま電車も止まってしまい、みんなで1時間以上歩いて帰りました。

当時はまだ携帯電話のメールが主な通信手段。

センターが混雑してしまったのか、地震発生直後はメールが届かなかったり、送れなかったり。もちろん電話も繋がりませんでしたよね。

やっと繋がったと思ったら、その時、たまたま喧嘩中だった当時の彼氏が、「怒ってないから!返信ちょうだい!」とすごく心配してくれていて、自転車で迎えにきてくれたのを覚えています。無視してたわけじゃないんだよ〜


その日の夜だったか、次の日だったか、

私たちはやっと、東北の被害を知っていくのでした。


それからしばらくは「ありがとウサギ〜」ばかりのテレビ。そして関東では計画停電などもありました。関西に住む親戚からロウソクが送られて来たりしました。

そんな日々の中で、ぼんやりと

「大学生になったらボランティアとして東北に行きたいな」と思うようになっていました。


そうして晴れて都内の大学に通うようになったわたしは、学内のとあるボランティアサークルに入ったのでした。

とても大きな団体で、団体内は海外に行って活動する部門と、国内(当時は主に東北)で活動する部門とに分かれており、東北部門はさらに、釜石や石巻、多賀城といったように、地域ごとにチームを組んで活動していました。

わたしは気仙沼のチームに参加させてもらうことになり、その夏、2度に渡って宮城県気仙沼市へ訪れたのでした。

ひとつは、夏まつりのスタッフとして。もうひとつは地元の中高生と交流して、学業や将来のこと、そして災害当時のことを学び合う、というものでした。


そこで、行ってみて気づいたこと、知らなかったことにたくさん出会いました。


参加したボランティアツアーでは、活動の前後に、地元の方に当時のお話を聞いたり、周辺の被災地をガイドしていただく時間が設けられていました。

まず印象的だったのが、なーーーんにもなかったこと。

私たちがテレビで見ていたのは津波が来る瞬間、そしてその後の瓦礫や泥が散乱した映像だったと思います。

3年が経ち、たしか南三陸町のあたりだったと思うのですが、何も無かったんです。キレイに、といったらおかしいですが、瓦礫はほとんどなく、もちろん建物もなく、そこはとてつもなく広い更地でした。

骨組みになった防災対策庁舎や、打ち上げられた第十八共徳丸も見学しました。


そして、ツアーガイドをしてくれた高校生の話がとてもショッキングでした。


災害当時、彼らが避難生活をしていた体育館は、半分は避難所、半分は遺体安置所になっていたそうです。

おそらく、亡くなっているかどうか、確定していない方もいたと思います。

倒れている人が見つかれば、とりあえず運び込む場所、ということだったのかも知れません。それはお友達かも知れないし、その場の誰かのご家族かも知れない。

暗くて寒い体育館の中で、人手も足りず、当時の中高生たちも作業を手伝ったそうです。


自分よりも若い彼らの言葉が、見てもいないのに映像となり、頭に焼き付いて今でも忘れられません。


そして10代のわたしは思うのでした。

『わたしにできること、無くない?』 と。


今思えば本当に中途半端で情けないのですが、そう、中途半端だったのです。

もちろん、同じ日本人として東北のために何か…と思っていた気持ちは嘘ではありませんが、高校時代の中途半端な覚悟のままだったのです。

災害から時が経ち、当時の自分が想像していた、”とにかく人手が欲しい作業”の段階ではありませんでした。わたしは行政にあれこれ働きかけられる立場でもなければ、多額の寄付を出来る人間でもなく、被災地のことを何も知らない無知で無力な子供でした。

人間、ひねくれ出すと自分を正当化しようとする思考が止まらなくなるようで、サークルにいた優秀な先輩達のことも、憎くて仕方なくなっていきました。

完全に偏見ですが、実家の太い(であろう)人たちと同じようには活動できない。自分は往復4時間かけて通学していて、都内のように時給のいいバイトもないし、遊ぶ時間も欲しいし、奨学金だし・・・と。

私大に通うと本当に、自分とは住む世界の違う子たちもたくさんいますけどね。


そんな最悪な感じで、わたしはしれーっとサークルを抜けました。

もちろん仕事ではないですが、周りの人にはめちゃくちゃ迷惑をかけてしまったし、続けていればきっと何か見いだすことが出来たかもしれません。

わたしの初めての”挫折”の経験であり、恥ずかしい過去です。


それからさらに時が経ち、もうすぐ震災から10年。


わたしは大学を卒業して就職し、あの時の彼は別の人と結婚していて、あの日カラオケにいた友人達は、今でも年に数回あつまる一生の友達になりました。

また不思議なことに、2年ほど前から父が仙台で単身赴任をしています。

あれから被災地へは行っていません。

正直、今でも”わたしにできること”は見つけられずにいます。


けれど10年経った今、きっとまた、あの時とは違う東北があって、すこし成長したわたしがいます。

また、今は別の敵と日本中が戦っている状況ですが、もう少し落ち着いたら、もう一度東北に行きたいなぁと思っています。

南三陸のさんさん商店街で、また海鮮丼を食べたいな!






\次はあなたの街も旅してみたいです/