[読書メモ]『「文系学部廃止」の衝撃』(吉見俊哉)

p29
戦争がない時代の国家を管理するのは法律であり、国家の中枢は法科系エリートで占められますが、戦争が近づくと法律は疎んじられ、武器製造のための技術活用、つまり理工系の重要性が増していきます。

p66
大学は、人類的な普遍性に奉仕する

p71
目的遂行型ないしは手段的有用性としての「役に立つ」は、与えられた目的に対してしか役に立つことができません。

p72
価値の軸は、決して不変ではありません。

p73
iPad/iPhoneの例が示すように、価値の転換をするというのは概念の枠組みそのものを変えてしまうことで、与えられたフレームのなかで優れたものを作るのとは別次元の話です。大きな歴史の流れのなかで価値の軸そのものを転換させてしまう力、またそれを大胆に予見する力が弱いのは日本社会の特徴であり、それが、日本が今も「後追い」を余儀なくされる主な原因だと私は思います。

p75
新しい価値の軸を生んでいくためには、現存の価値の軸、つまり皆が自明だと思っているものを疑い、反省し、批判を行い、違う価値の軸の可能性を見つける必要があるからです。経済成長や新成長戦略といった自明化している目的と価値を疑い、そういった自明性から飛び出す視点がなければ、新しい創造性は出てきません。

p83
大学で学ぶ知的エリートは、学問的な思考の規則を獲得することにより、国家の単なる使用人ではなく、むしろその自律的な主体とならなければなりません。

pp101-102
ここでウォーラーステインは「社会科学」の成立について論じているのですが、同じような議論は人文学(Humanities)として括られる歴史学や文学研究、思想史、美術史などについても可能でしょう。要するに、「社会科学」であれ「人文学」であれ、これらの「人文社会系」の学問が独立した諸分野の集合体として登場するのは一九世紀のことで、そうした学問の分化は二〇世紀半ばまでには大勢が完了しているのです。/それ以降、すなわち二〇世紀半ば以降に広がっていく人文社会系の知は、ジェンダー・スタディーズやフィルム・スタディーズ、カルチュラル・スタディーズというように「スタディズ」という接尾辞が付けられるか、あるいはポストモダニズムやポストコロニアリズム、さらにはニューヒストリシズムというように「ポスト」や「ニュー」の接頭辞が付けられ、それ以前の分野と区別されていきました。重要なのは、私たちがまず照準してきた「文系」は、とりあえずはこのような一九世紀から二〇世紀にかけての歴史的産物だという点です。

p114
教育のオープン・アクセス化と学生の遠隔からの可視化が結びつけられていき、万人がアクセス可能であると同時に、万人がグローバルに階層化される仕組みが発達します。

p118
学生定員を満たしていくための様々な無理が一部の大学に生じていくことになります。これを私は、「志願者マーケティング」の論理と呼んでいます。大学が、「知を究める」学問の論理でも、「人を育てる」教育の論理でもなく、「資格を売る」、あるいは受験料や学費を稼ぐというマーケティングの論理で動いていくことになるのです。そうなると必然的に、大学のイメージ戦略や高校へのマーケティングが重要になってきます。

p140
そもそも「大学自治」の根幹を担うと思われてきたのは教授会ですが、これは基本的にファカルティ、すなわち教授権を保持する人々から成るギルド的組織です。この教授会には、大学職員も、若手の特任教員、非常勤講師、研究員も、それに学生も含まれません。数からいえば圧倒的に多いこれらの構成員を排除して、「教授」や「准教授」がそれぞれの学部や研究科の人事権や運営権、諸々の決定権を一手に握って行使しているのが教授会という組織です。

p141
日本の大規模総合大学は、欧米の大学と比べてみてもこうしたトップダウンの仕組みが弱く、権力は分散的で、かなりのことがそれぞれの個別組織の「自治」に任されています。その結果、大学全体の統治の仕組みは企業的でないのはもちろん、官僚制的ですらなく、むしろ「封建的」(様々な荘園がそれぞれ自治権を持って縄張りを守っている)と呼んだほうがいい体制で、学内諸組織の利害調整に膨大な時間的労力を要することになるのです。この調整労力の大きさが、日本の大学を身動きできなくさせている最大の要因です。

p172
二一世紀の大学は、キャンパスに閉じられた存在のままではいられません。街のなか、博物館や美術館、図書館や劇場などの文化施設、企業の工場、デザインハウス、山田僻地や災害被災地、そして連携する海外大学のキャンパスへ、大学の活動の場は広がっています。その結果、これまで大学キャンパス内で守られてきた閉鎖的なアカデミズムの慣習は、市井の人々の日常の実践活動や企業の経済活動、地域の町おこしの現場、さらには海外の大学などの多言語的な場のなかで相対化されていくはずです。

p177
大学の知は、構造的にも高校の知と異なります。高校では基礎知識を学び、問いに対して正解を導き出す能力を身につけることを求められるのに対し、大学が学生に要求するのは、既存の知識を内在的に批判し創造的な問いを導き出す「問題発見の知」です。答えがわかっていることは教科書を見ればいいわけで、それは大学で学ぶことの中核ではありません。

p181
大学の質を維持していくには、入学者を厳しく選抜する入口管理の方法と、卒業生を段階的に絞り込んでいく出口管理の方法の二つがあります。日本や中国、韓国といった東アジアの大学は基本的に入口管理で、入試の壁が非常に高く、強固です。これに対して欧米の大学は、基本的には出口管理です。

p211
このような節操のない順応主義(「長いものに巻かれろ」主義)に、深い問題があることは明白です。

p218
多くの学生が、「君の問いは何なの?」と聞くと、長々と自分のパーソナル・ヒストリーを話し始め、「だから私はこの対象にとても興味を持つようになったのです」とか、「だから私はこの対象が大好きなのです」と答えたりするのですが、個人的「動機」と学問的「問い」は別です。ここでいう「問題意識」とは、あくまで学問的「問い」のことであり、どのような経験を背景とするのであれ、悩み抜いた結果として「この問題を考えることが、学問的にみて決定的に重要だ」と考えるに至ったその問いです。つまり、その問いは経験に基づくかもしれませんが、それが大切なのではなく、学問的な問いとして位置づけられるものになっていることが、非常に大切なのです。

p222
文系の学びの根幹をなすのは、「論文を書く」ことと、もう一つは「ゼミ」で議論することです。

p225
この対話を重視するゼミのモデルは万国共通です。

p245
まったく有用性や「役に立つ」ことなどと関係なく、「遊ぶ」ことは大学の学びと知の根底にある活動です。


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