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「白銀の輪舞」第六章「アイリッシュティー」


 第六章 「アイリッシュティー」

 守嶺家の女性ふたりは、N市中心部のマンションに潜伏していた。

 潜伏と表現するにはあまりにも豪華な、三十階建て高級マンションの最上階であったが。

「桂木様。こちらでございます」

 華多岡に案内された鋭次郎は、二十畳はありそうなリビングに通された。暖房は入っておらず、温度は外と変わらない。

 部屋は全体的に白と黒のモノトーンの配色で、やや薄暗い照明が、高級なバーかホテルの一室の様な雰囲気を醸し出している。奥にグランドピアノが置いてあり、その横には階下に向かう階段があった。マンションではあるが、ふたつのフロアに跨った構造になっているようだ。

 リビングの南側は全面が大きな窓になっており、雪に覆われた街並みの夜景が、まるで航空機から見るような眺めで眼下に広がっていた。

 窓辺には、ガラス細工の動物や城などの置き物が並べられ、柔らかな間接照明を受けて光っている。

 守嶺家のお嬢様こと魅雪は、白いコートを脱いで華多岡に預けると、黒い革のソファに座った。コートの下は、白いワイシャツに黒のミニスカートという軽装である。職場から独身寮に至るまで、女っ気の少ない男性社会に暮らす独身警察官には、少々目の毒であった。

「いつまで立ってる気?」

「え? あの……」

 胸の高まりを見透かされたように声をかけられ、鋭次郎は言葉を失った。

「いいから、そこに座りなさいよ」

 きつい命令口調ではあるが、ピアノのように高く澄んだ彼女の声は、やはり耳に心地良かった。

「失礼します……」

 ガラステーブルを挟んで少女の対面に座り、足元にボストンバッグを置く。

 少女は長い足を組んで深々とソファに腰掛け、窓辺のガラス細工を眺めていた。整った横顔。切れ長の眼に琥珀色の瞳。睫毛がとても長い。

 女子高生に取り憑いた鬼は、彼女のことを『守嶺家当主の化け物女』と呼んでいた。

 だが、こうして見る限りでは……ガラス細工のように繊細な、ひとりの少女にしか見えなかった。

「あのね」

 横を向いたまま、少女が呟いた。

「ありがとう」

「え……」

 思いがけないお礼の言葉に、鋭次郎は一瞬、戸惑ってしまった。

「にぶいわねえっ!」

 少女は正面を向いて、鋭次郎を睨みつけた。

「さっきは鬼から踏まれそうなところを助けてくれて、ありがとうって言ってるの!」

 ぶっきらぼうな物言いに、鋭次郎は思わず吹き出してしまった。

「な、何がおかしいのよ!?」

 頬を赤く染めて怒る少女を、鋭次郎は好ましく感じた。普段はクールな性格を装っているが、本当は素直で、感情豊かな女の子なのだろう。いま目の前で怒っている姿が、本来の守嶺魅雪という十八才の少女なのだ。

 出会って以来少女の言動には振り回されっ放しだったが、鋭次郎はそれが決して嫌では無いことに気づいていた。

 ――何だろうこの感じ。ずっと前にもどこかで……。

「一応言っとくけどね? 別にあの時、あなたに助けてもらわなくたって、わたしは自分でも避けられたんだから!」

「そうでしょうね」

「そうよ」

 鋭次郎は微笑み、頭を下げた。

「余計なことをしてしまい、失礼しました。でも、僕の仕事は守嶺さんの身辺警護ですから、これからもよろしくお願いします」

「別に構わないわよ。わたしと華多岡の邪魔をしなければね!」

 少女は「フンッ」と言って、再び視線を窓の外に移した。

「守嶺さん、僕の方こそお礼を言わせてください」

「何?」

 魅雪は、そっぽを向いたままだ。

「病院では、色々とありがとうございました」

「ああ……そのことね」

 いかにも興味が無さそうな言い方である。

「華多岡さんと一緒に、鬼から助けて頂いたこと……それから守嶺さんは、二ヶ月もの間、僕のことを看病してくださったんですよね?」

「それは」

 少女は何故か、耳まで真っ赤になっていた。

「べ、別に……作戦のついでに、たまたま看病してあげただけよ。あなたの看病がしたくてやった訳じゃないわ」

「でも守嶺さんはこれまで、看護師のご経験があったんじゃないですか?」

「ないけど。どうしてそう思ったの?」

「病院での立ち居振る舞いが、とても自然に見えましたから……」

「当然よ」

 少女は得意げに言った。

「鬼狩りでは色んな潜入捜査をするから、必要があればどんな立場だって演じてみせるわ。演技よ。演技」

 魅雪は殊更、演技という言葉を強調した。

 病室で鋭次郎に向けてくれた笑顔も、演技だったというのだろうか。一抹の寂しさを感じつつも礼を言うことにする。

「でも二ヶ月もの長い間となると、やっぱり大変だったと思います。面倒を見て頂いて、ありがとうございました」

「お礼なんか要らない」

 少女は軽くうつむき、そっと言葉をこぼすように言った。

「任務だからしただけだし……看護師なんか、似合わないかもしれないけど」

「そんなことないですよ」

 鋭次郎は慌てて言った。

「ナースの制服、とても似合ってましたよ」

「本当に?」

「ええ。だって目覚めたときは、何て綺麗な看護師さんなんだろうって……」

 そこまで口にして、今度は鋭次郎が真っ赤になってうつむいてしまった。

 ――バカだな、調子に乗り過ぎだ。

 また怒らせてしまったのではないかと少女に目を戻すと、意外とまんざらでもなさそうな表情だったので、鋭次郎はほっとして言った。

「守嶺さんはまだこれから、きっと何にでも成れますよ」

「そうかしら。本当に、そう思う?」

 魅雪は、すがるような目をしていた。当直医は彼女のことを十七才か十八才と言っていたが、それどころか、まるでまだ年端もいかない幼い少女のような顔つきだった。

 鋭次郎は何か心に引っかかるものを感じつつ、元気づけるように言った。

「きっと何にでも成れます。看護師でも、何にでも」

「そうかな。本当にそうだといいんだけど……」

 少女は、胸元のペンダントをいじりながら微笑んだ。

 その微笑みはとても儚く、鋭次郎は自分の心が強く揺り動かされるのを意識した。

「あのね」

 魅雪が鋭次郎の顔を見た。美しい琥珀色の瞳には、希望の光が宿っている。

「わたし、今度の仕事が無事に終わったら、やりたいことがいくつかあるの」

 少女の笑顔に目を奪われながら、鋭次郎は強い既視感の虜になっていた。

 ――俺たちは前にもこんな感じで、ふたりで話をしたことがある……そんな気がする。

 だがそれ以上は、やはり思い出すことが出来なかった。

「おや、何だか楽しそうですね?」

 コートを脱ぎ、黒いシャツの上に生成りのエプロンをつけた華多岡が近づいて来た。こうして見る限り額と口元に絆創膏を貼っているくらいで、闘いのダメージはほとんど残っていないようだ。

 腰の高い位置で締めたエプロンの紐が彼女のスタイルの良さを際立たせている。改めて見ると、やはり相当な美人だった。ブーツからスリッパに履き替えているが、それでも鋭次郎より背が高そうだ。

「お飲み物は何になさいますか?」

 魅雪は何事も無かったかのように無表情に窓の外に目を遣り、「いつもの」と答えた。

「桂木様は?」

「いえ、僕は」

「遠慮なさらずに。では魅雪お嬢様と同じもので、ようございますか?」

「あ……はい。では同じで」

「かしこまりました。魅雪お嬢様がお好きなアイリッシュティーをお淹れしますので、しばらくお待ちくださいませ」

 鋭次郎は、華多岡がリビングの対面キッチンで紅茶の準備を始める様子を、横目で窺った。

 鼻歌交じりでいそいそと立ち働くその姿を見ていると、さっきビルの側壁に叩きつけられ、七階から落下したことなど、とても信じられない。

 守嶺家とは、一体どんな一族なのだろう? 

 普通の人間からすれば、華多岡も鬼に負けず劣らず結構な化け物であるとしか、言い様が無い。

「それは少しばかりひどいですわ、桂木様」

 コンロで沸かしているお湯を気にしながら、華多岡が言った。

「え……」

「わたくしは化け物ではありません。これでも歴とした人間、レディの端くれですよ」

 責める様な目で、ちらりと客人の顔を見る。

 鋭次郎は窓辺のソファに座ったまま、凍り付いていた。

「華多岡さん、まさか……」

 異常な程の体力だけでなく、鬼と同じように人の心が読めるのだろうか。

 ソファの対面に座る魅雪が、鈴が震えるような声でクスクスと笑った。

「別に貴方の心を読んでいるわけじゃないわ。ね、華多岡」

「その通りです。そんなに見つめられると、大体何を考えているのか想像がついてしまうというだけのことです」

 華多岡が大仰に頷いた。

「まあ……でも、桂木様がそれだけ動揺しているところを見ますと、図星だったようでございますね」

「い、いや僕は、その」

 慌てれば慌てるほど、華多岡の言葉を肯定することになってしまう。

「桂木様は、嘘がつけないお人のようです……でもわたくし、正直な方は大好きですよ」

 華多岡はウインクをして言った。

「何しろ普段、嘘つき極まりない鬼どもと付き合っておりますから」

 魅雪は口元を押さえて笑い続けている。

「あのう、華多岡さん」

 鋭次郎が恐縮した顔で話し掛ける。

「はい桂木様、なんでございましょう?」

 生クリームを手際よくホイップしながら華多岡が尋ねる。

「僕のことを様付けで呼ぶのは、やめていただけませんか? 僕はただの警察官ですから」

「いえいえ。桂木様は、お嬢様の大切なお客様でございますから」

 ――大切なお客様?

 どういう意味なのだろうか。

「あの……」

「さあ出来ましたよ!」

 華多岡は話を打ち切るように明るく言うと、アイリッシュティーをトレーに乗せてテーブルに運んできた。

「お嬢様には、コールド。未成年でいらっしゃいますから、ウイスキーは香り付け程度に」

「ありがと」

 少女は包帯を巻いた手に透き通ったグラスを取り、ストローでくるくるとかき混ぜた。黒褐色の液体に浮かんだ雪のような生クリームが、じんわりと溶け込んでいく。

「桂木様には、ホットでお淹れしました」

「ありがとうございます」

 鋭次郎の前に置かれたティーカップからは、湯気が立ち上っている。

「桂木様のカップには、アイリッシュ・ウイスキーを少し多めに入れておきました。恐れ入りますが、このお部屋には暖房がありませんので、これで暖まってくださいませ」

 今更のように鋭次郎は、自分が革ジャンを着たままであることに気が付いた。帰宅するなりコートを脱いだ魅雪たちは寒くないのだろうか。

「頂きます……」

 疑問を抱きつつ一口飲むと、ウイスキーの豊かな香りと味わいが口いっぱいに広がった。

「おいしい」

 思わず口にした言葉に、少女がにっこりと笑った。

「でしょ? 華多岡の入れる紅茶は、最高においしいんだから」

「ありがとうございます」

 ソファセットの横でトレーを両手に持って立っている華多岡が微笑んだ。

「以前、喫茶店を経営していたものですから」

「へえ……」

 じゃあ今は――と聞こうとして、鋭次郎はやめた。

 せっかくの和やかな雰囲気を壊すのが、もったいなく思えたのだ。

 何しろ恐ろしくプライドが高く気難しい美少女が、珍しく鋭次郎に笑顔を向けてくれているのだから。微笑みを浮かべた魅雪は白い花のように可憐で、彼は見蕩れるばかりだった。

「桂木様」

 だが、またしても鋭次郎の心を読んだかのように華多岡が問いかけてくる。

「貴方様は……喫茶店のマスターだったわたくしが、何故鬼狩りしているのか……そもそも、わたくしの正体が何なのかを、お聞きになりたいのではないですか?」

「……」

 鋭次郎は頷くしかなかった。

「その通りです」

 華多岡の表情が硬くなった。

「やはりそうですか。桂木様が知りたいと仰るのならば……仕方がありませんね」

 喋りながら、華多岡は目をつぶった。

「この、わたくしの正体……」

 一体、彼女は何を語ろうとしているのだろうか。結界を作り、凶暴な鬼と素手で渡り合う謎の美女の素性が、今、明かされるというのか。

 華多岡がぱっちりと目を開いた。琥珀色の瞳が、鋭次郎をじっと見つめる。

「それは」

「……それは?」

「……」

 鋭次郎は息を呑んで、華多岡の次の言葉を待った。

「それはつまり『ひ』が、みっつなのです」

 一体、どういう意味なのだろう?

 何かの呪文、それとも古代の暗号なのか

「あのう……ひが、みっつとは?」

 華多岡は神妙な顔つきで答えた。

「……『ひ』がみっつ……『ひみっつ』……だから『秘密』です」

「は……?」

 鋭次郎は口を開けたまま、唖然としていた。

「……ぷっ」

 鋭次郎のリアクションを見て魅雪が吹き出し、華多岡が大声で笑った。

「あーっはっはっはっ! 引っ掛かった、引っ掛かりましたね!?」

「やだ華多岡ったら。下品な笑い方はやめなさい!」

 ふたりの思いがけない弾けぶりに、鋭次郎は文字通り度肝を抜かれた。

 ――まさか……ギャ、ギャグだったのか?

 華多岡は倒れ込んで床をバシバシ叩き、魅雪はソファに突っ伏して大笑いしている。ふたりとも笑いすぎて涙が出て来たらしく、ハンカチで目頭を押さえている。

 ――何なんだ、この人たちは……。

 腹を抱えて笑い転げる美女ふたりを前に、鋭次郎はただ呆然としていた。

「ちょっと華多岡! 笑いすぎだってば!」

 しばらくして少女が起き上がり、笑いが残った声で従者を叱りつけた。

 ――ていうか、君の笑いっぷりも相当なものだったけど。

「いやいや……これは桂木様、失礼いたしました」

 華多岡も半分笑いながら、鋭次郎に謝った。

「どうも普段、血で血を洗うようなシリアスな日常を送っているせいか、お嬢様もわたくしも笑いに飢えておりまして……時々このように、たがが外れてしまうのです……人間やはり心のバランスが重要でございますから」

 端正な顔にもっともらしい表情を浮かべ、ウンウンと頷く。

「あの、少々驚かれましたか?」

「はあ……まあ」

 少々どころではない。全く持って守嶺家は捉えどころのない一族である。

「自分で言うのも何ですが、わたくしの繰り出す冗談は守嶺家随一。破壊力抜群でございます。しかし鬼どもには通じないのです。奴らには『諧謔精神』が足りませんから」

 ――いや、あなたにも色々と足りない気がしますけれど……。

「ホント。華多岡の爆笑ギャグ、お腹の皮がよじれそうだったわ。ね?」

「はあ……」

 鋭次郎は少女の「昭和感」漂うコメントに少し顔を引きつらせつつ、頷いた。大変いたたまれない感じだったが、二人の女性が初めて見せる柔らかな雰囲気に微笑ましさを感じてもいた。

 ――まあ、ふたりが楽しいならそれでいいか。

 華多岡は手に持ったトレーをガラスのテーブルに置き、背もたれのない小さなソファに座った。

「さて。桂木様」

 華多岡が真顔に戻って言った。

 魅雪もハンカチで涙を拭って、ソファに座り直す。

「引き返すなら今のうちです」

「え?」

「世の中には、知らずに済んだ方が良いこともございます。いえ、知らないで生きている人の方が、ずっと多いのです」

 鋭次郎は、ごくりと唾を飲み込んだ。もちろん華多岡は、鬼狩りのことを言っているのだろう。

「これ以上踏み込めば、貴方様は『当事者』になる。これまでのありふれた日常には、もう二度と戻れなくなるのです」

 間接照明の淡い光の中で、守嶺家のふたりは美しく神秘的で、少しばかり禍々しくもあった。鋭次郎は、日常があっという間に崩壊し神話の世界に引きずり込まれて行くような、眩暈にも似た感覚を味わっていた。

 眼前の美女ふたりは、果たして鋭次郎を救う天使か、それとも地獄に引きずり込もうとたくらむ悪魔なのか――。

「桂木様が、この血みどろの『鬼との闘い』から身を引くことを望まれるのなら、わたくしどもはお引止めしません。あの鬼は今後も桂木様を狙うでしょうが、わたくしたちが必ず、貴方様の命をお守りします」

 鋭次郎はアイリッシュティーが入ったカップを両手で持ち、華多岡の言葉を黙って聞いていた。

「いかがですか? 決めるのは貴方様です。しかしここで引き返したとしても、桂木様のことを臆病者と笑う者は、誰もいないでしょう」

「華多岡さん」

 答はもう決まっていた。

「僕はすでに二度も鬼と闘いました。正直、今でも恐ろしくてたまりませんが……でも、あの凶悪な鬼を捕まえることは、市民を守る警察官の使命だと思います。それに僕はおふたりのお仕事をお手伝いし、守嶺魅雪さんの身辺警護もするよう、本部長命令を受けています」

 鋭次郎はティーカップをテーブルに置いた。

「僕は決して優秀な警察官ではありませんが、出来る限り頑張りたいと考えています。ですからどうぞ、お話を聞かせてください」

「流石ですわ」

 華多岡が彫りの深い顔に微笑を浮かべた。

 魅雪はアイリッシュティーを小さくかき混ぜた。その顔は少しだけ嬉しそうに見えた。

「自らの仕事に誇りを持ち、その職責を全うしようという方を、わたくしは尊敬致します。桂木様は立派な警察官です。今回の『號羅童子狩り』には、是非、貴方様のお力をお借りしたいと思います」

 華多岡は姿勢良く座り直して言った。

「それでは、お話ししましょう。お嬢様とわたくし、そして鬼たちのことを……」

 魅雪は立ち上がり、窓外の夜景を一心に見つめた。


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いかがでしたか?
なごんだところで、次回をお楽しみに。

ご感想、お待ちしています(;'∀')

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