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「白銀の輪舞(ロンド)」序章

「白銀の輪舞(ロンド)」  
    イラスト・文章/村山 仁志



 ――私は走る。
 ――私を知らない、あなたのもとへ。


 <序章>


 桂木鋭次郎巡査は繁華街の暗い路地裏に横たわり、なす術も無く空を仰いでいた。
 左の首筋からは大量の血が噴き出している。ほんの数分前、拳銃で撃たれたのだ。
 血は濃紺のハーフコートを黒々と染めて、冷たいアスファルトにしたたりながら彼の体温を奪っていく。
 首を撃たれて即死しなかったのは運が良かったが、倒れた時に後頭部と背中を強打したせいで体に力が入らず声も出ない。無線で応援を呼ぶことすら出来ない、危機的状況であった。
 晴れているのに夜空から粉雪が舞い降りて来る。南国と呼ばれる九州にあって、この冬は例年になく雪の日が多い。
 西暦二〇〇〇年代初頭の二月三日、ちょうど節分の深夜。
 桂木が繁華街をパトロールしていたところ、路地裏で拳銃を持った巨漢に出くわし、いきなり発砲された。
 銃弾は桂木巡査の首を掠め――彼は頚動脈から血を噴き出しながらその場に倒れ――巨漢は、そのまま何処かに逃走してしまったのだった。
 逃げた男は筋肉が盛り上がったプロレスラーのような、日本人離れした体格をしていた。警官を見るなり発砲したのだから、そもそも何らかの事件に関わる犯罪者であることは間違いない。しかし特徴的な外見にも拘わらず桂木には見覚えのない顔だったので、指名手配犯ではないだろう。
 運が悪いことには――パトロール中、観光客に道を尋ねられて道案内をした彼は、ペアを組んだ同僚とほんの数分間だけ離れ、単独行動をしていたのだった。
 この街で一番大きな歓楽街は冬の真夜中でもにぎやかだが、通りから一本外れた路地裏には街灯も無く、人気も無い。つまり、銃撃事件の目撃者もいなかった。大通りはにぎやかなだけに、拳銃の発砲音が聞こえた可能性は低いだろう。
 唯一の頼みは相棒の警察官が異常に気づいてくれることだったが――首の出血の量から見て、桂木に残された時間はあまりないようだ。
 死ぬ間際には、これまでの人生が走馬灯のように蘇るという。だがそうでない場合も、たまにはあるようだ。桂木は失血死を目前にして、自分でも意外なほど冷静だった。
 死の恐怖に脅えることもなく、そうかといって二十四年の生涯に感慨もなく、ただビルの上空に浮かぶ冬の星座オリオンを眺めていた。
 桂木がN県警察本部警察官を拝命して、もうすぐ四年。独身だし、恋人もいない。
 両親は彼が幼い頃に離婚し、一緒に暮らしていた父親は数年前に亡くなった。三つ離れた弟は母に連れていかれたが、二人とはずっと会っていないし、今どこにいるのかも知らない。もはや天涯孤独の身のようなものだ。
 学生時代の仲間とも大学を中退して以来、疎遠になってしまっていた。警察官になった後は、特に親しくしている友人もいなかった。
 ――俺が死んでも、悲しむ人はいない。
 そう考えると自分が死ぬことなど、気楽なものだった。
 ――パトロール中に銃撃を受けて殉職。冴えない人生の締めくくりとしてはドラマチックかな。
 まるで他人事のように考えながら、だんだん意識が遠のいていく。体が麻痺しているせいか、痛みも感じない。むしろ、とても安らかな気分だ。眠たくてたまらない。
 きっと眠ったら、二度と目を覚ますことはないのだろう。
 ――死ぬ瞬間って、こんなにあっけないんだな……。
 冷たい大気を伝って、ギターの旋律が聞こえてくる。男性ボーカルがハイトーンで歌いだした。弾き語りだ。切ないバラード。歌詞は途切れ途切れにしか聞き取れないが、どうやら、悲しい別れを歌っているようだ。まるで死に行く自分へのレクイエムのようでもある。
 ――どこかのバーで歌ってるのかな……。
 真っ暗な路地裏に横たわり、粉雪越しにオリオンを見つめながら、桂木巡査は音楽に聞き入った。
 ――どんな人だろう。今度、店に行ってみようか?
 彼は唇を歪めた。「今度」は、もう無いのだ。
 少しだけ自分が死んでしまうことが寂しく思えた。
 ふと、星空にオーヴァーラップして、幼い女の子の顔が浮かんだ。
 見知らぬ顔。幼稚園児くらいだろうか。髪が長く瞳は琥珀色で雪のように肌が白い。まだ幼いにもかかわらず、どこか凛とした気品を持つ、見たこともないような美しい少女だった。
 少女は思いつめたような表情で、彼を懸命に見つめている。何か言いたげだが、喋ることは無かった。
 ――誰だろう?
 いつの間にか少女は舗道に立ち、横たわった桂木巡査を上から見下ろしていた。鮮やかな花柄のワンピース。彼は、茶色い宝石のような瞳を見つめ返しているうちに、だんだん自分が少女のことをよく知っているような気がしてきた。
 ――子供の頃の……幼馴染?
 いや、多分違う。こんなにきれいな女の子が友だちだったとしたら、たとえ子供の頃のことでも忘れないだろう。
 不意に眉間の古傷が疼いた。随分昔の傷だが今はかなり薄くなっていて、彼自身も普段は意識していないくらいである。
 ――そう言えばこの傷、どうして出来たんだっけ……?
 思い出せない。
 ――いや待てよ、というか……。
 『この傷が何故あるのか』、今まで一度も考えたことが無かったことに気づく。
 ただ漫然と『子どもの頃の怪我』と思い込んでいたのだった。
 ――どうしてだろう……。
 夜空に浮かんだ女の子は悲しげな表情をたたえたまま、琥珀色の瞳で桂木巡査を見つめている。
 出血のせいか視力が低下しており、路地の向こうのネオンの灯りがだんだん薄暗くなってきた。逆に少女の顔は、まるで夜空に浮かぶ満月のようにますます白く輝いている。
 ――あ……!
 まるで天啓のように、桂木の思考に閃きが訪れた。
 ――やっぱり、この子のことを知ってる!
 女の子の寂しげな顔も、長い睫毛も、腰まで伸びた黒髪も……確かに自分はよく知っているのだ。
 いや、正確に言うと、よく『知っていた』のだろう。
 ――一体、いつ……どこで? 名前は……?
 少女の出現には、何か大きな意味があるような気がした。
 だが残念なことに、少女のことを思い出し、そこにどんなメッセージが込められているのかを考える時間は、もう彼には残されていなかった。
 冷たいアスファルトを濡らす彼の血だまりは、ゆっくりと広がっていく。もう考えることすら億劫になってきていた。
 いよいよ我慢できないほどの睡魔に襲われ――抗うのを諦めて目を閉じようとした、その時。
「桂木鋭次郎くん……」
 ピアノのように澄んだソプラノで、女の子が喋った。幻聴とは思えない、はっきりとした声。その声は幼児ではなく大人の声だったが、死の淵を彷徨う桂木に違和感を覚える余裕は無かった。
「ちょっと我慢してね」
 にっこりと微笑み、白い手を伸ばしてくる。
 首筋に鋭い冷たさを感じて、桂木鋭次郎巡査の思考は途切れた。


 都会の闇の中を、ふたつの影が音も無く走って行く。
 影のひとつは白く小柄で、もうひとつは黒く大柄である。
 粉雪の夜だが、人間離れした速さで移動するふたつの影の周囲にだけ、まるで吹雪のように激しく大粒の雪が舞っている。
「華多岡、見つけたわ! 夢で見たのは、この通りよ!」
 雪をまとい、白いコートと長い黒髪をなびかせて疾走するハイティーンの少女が、大きく路面を蹴って方向転換をした。まるで陶製の人形のように色白で、整った眉と切れ長の眼に意志の強さが表れている。瞳の色は、宝石を思わせる琥珀色だ。
「承知しました、魅雪お嬢様」
 少女に華多岡と呼ばれた長身の女性が、滑るように後を追いかけていく。黒いコートを羽織り、大きなつばのある黒い帽子を被っている。こちらも透き通るように肌が白く、瞳は琥珀色、紫色のルージュが印象的だ。
 星空、歓楽街のネオン、違法駐車の列、舞い落ちる粉雪、ごみを漁る野良猫たち……。走る少女の前には、幼い頃から繰り返し見た夢と、全く同じ光景が広がっている。ビル街の上空には、オリオン座が大きな手を広げて輝いていた。
 ――ありふれているけれど……。
 魅雪は走りながら思う。
 ――ありふれているけれど、わたしが一番好きな冬の星座。
 少女の白い頬が、桜の花びらのように薄く染まる。
 ――もうすぐ逢えるんだわ、彼に。
 期待に逸る気持ちを懸命に抑えながら、魅雪は先を急いだ。この先に『彼』がいる筈なのだ。天高く槍を構える巨人は、ただ静かに、走る少女を優しく見守っている。
 やがて暗い路地裏で、少女の足が停まった。
「……」
 魅雪は軽く息を弾ませながら、道路に仰向けに倒れた警察官を見下ろした。ほどなく、もうひとつの影も到着する。
 彼は首筋から血を噴き出していた。アスファルトには血で黒い水溜りが出来、だんだん広がっている。見開かれた目はうつろで、意識を失いかけているようだ。流れ落ちる血と空から舞い降りる粉雪が、体温を急速に奪っている。極めて危険な状況と言えた。死の淵が傍らで大きな口を開け、彼の命が落ちて来るのを今か今かと待っているのだ。
 それはまさに、少女が夢で何度も見た、瀕死の警察官の姿であった。
「この青年が……」
 背の高い女性が口を開いた。
 少女の綺麗に揃えられた前髪の下の瞳が、大きく見開かれた。
「桂木鋭次郎くん……」
 胸の中で何度も繰り返してきた名前を口にして、上気した頬が燃えるように熱くなる。
 大柄な従者は、感情を露わにした若き主人に微笑みを浮かべた。ボブカットの黒髪が粉雪混じりの風に揺れて、彫りの深い顔を触る。
「急ぎましょう。まずは桂木様の命を救うのです」
 少女は仰向けに倒れた桂木巡査の傍らに跪くと、喉元に手をかざした。
 蒼白になった彼の顔を間近に見ると、思わず手が震えてしまう。魅雪が夢で見たのは、倒れている彼を見つけるまでだ。これから先に起こることは見ていない。
「魅雪お嬢様のお力で必ず助けられます。桂木様の生命力と宿命を信じるのです。どうぞ落ち着いて……」
 魅雪はゆっくりと頷き、白いミトンの手袋を脱いだ。
「ちょっと我慢してね」
 少女の華奢な手が、桂木巡査の首筋に軽く触れる。刺すような冷たい感触に、桂木の体が反射的に硬直した。魅雪がもう一度深呼吸し、手を少しずつ首筋に押し付けて行く。
「う……」
 少女は呻き声を漏らした。少女の透き通った白い指先が、まるで熱した石を触っているかのように、音を立てて焼け焦げていく。
 鋭次郎の目が閉じた。意識を失ったようだ。いよいよ時間が無い。
 魅雪は深呼吸をして、鋭次郎の傷口と自分の右手に、全神経を集中させた。
 琥珀色の瞳に青白い光が淡く浮かび、徐々に強くなっていく。オリオン座のリゲルが地上に降りてきたような、神秘的な光。
「死なせない。絶対にあなたを、死なせない」
 切れ長の目に滲んだ涙の粒が氷の結晶となり、仄青い光を放ちながら、頬を転がり落ちてゆく。
「あなたはまだ、わたしとの約束を果たしていない……」
 どこからかギターの弾き語りが流れていた。切ないバラード。魅雪は、まるで自分のことを歌われているような気がした。
 やがてパリパリと氷が張る音を聞いて、少女は鋭次郎の首筋から手を離した。瞳に灯った青白い光が、次第に弱くなっていく。傷口にはかさぶたの様に薄い氷が張り付いて、出血を止めていた。
「成功です。太い血管の出血さえ止まれば、大丈夫でございましょう」
「……」
 魅雪は、ほっとしてため息をついた。緊張の糸が切れ、少し体がよろめいてしまう。
 死線を越えてきた者だけが知る『死の匂い』とでも言うべきものがある。鋭次郎からはもう、その匂いが感じられなかった。顔には赤みすら差し始めている。多少の輸血は必要だろうが、ここから先は病院の仕事だ。
 ギターの弾き語りはいつの間にか終わり、つかの間、街のざわめきもおさまっていた。
 しんとした空気の中、彼に目を落とす。眉間に古い傷跡があるのを見つけて、少女の頬が再び紅潮した。
 彼の首に当てていた右の手のひらは、赤黒くただれている。まるでひどく火傷をしたようにも見える。魅雪はミトンの白い手袋を着け直し、軽くさすった。痛みをこらえているようで、どこか嬉しそうでもあった。
「魅雪お嬢様」
 忠実な従者がそっと声をかける。
「恐れ入りますが、わたくしたちには、あまり時間がございませぬ」
「分かっているわ、華多岡」
 魅雪は立ち上がって、腰まである長い黒髪を両手で後ろにはらった。感情を抑えたクールな表情で、背の高い華多岡を見上げる。
「わたしなら大丈夫」
 華多岡は彫りの深い顔に微笑みを浮かべ、琥珀色の瞳で少女を見返す。
「齢十七とは思えぬその落ち着きぶり。感服仕ります」
 そう言う華多岡は、まったくもって年齢不詳である。時代がかった口調を好むようだが、二十代半ばにも、逆に四十代くらいにも見える不思議な女性だった。
「わたしだって、もうすぐ十八才になるんだもの」
 魅雪は白いコートを脱いで、鋭次郎の体にかけた。コートの下は、薄手のカッターシャツにスカート姿だが、寒くはない。冬は彼女の季節なのだ。むしろ雪風が心地良かった。
「おや?」
 華多岡が遠くの曲がり角を指差し、魅雪にウインクをして見せた。懐中電灯を持った警察官が、靴音を響かせて歩いて来る。
 魅雪と華多岡は、音も立てずに高々と跳躍した。何度か跳躍を繰り返し、五階建ての雑居ビルの屋上から、さっきまでいた裏通りを見下ろす。
「……!」
 警察官が、道路に倒れている鋭次郎に気づいた。
「桂木さん!」
 慌てて鋭次郎の元に駆け寄る。
 魅雪が幼い頃から繰り返し見てきた悪夢が、終わった瞬間であった。
 眼下では警官が無線を使い、叫ぶような声で救急車を要請している。鋭次郎には、魅雪の白いコートが掛けられたままだ。
「彼、後で目が覚めたら、コートを見てどう思うかしら?」
 微笑む魅雪に、従者の華多岡が話しかける。
「ところでお嬢様。怪我の様子から見て、これは単なる『事故』と思われます」
「どういうこと?」
 少女は怪訝な顔をして、背の高い従者を振り返る。
「桂木様の首の傷そのものは、致命傷ではございません。もしも『奴』が、桂木様を故意に襲っていたとすれば……銃などは使わずに、相当の憎しみをもって、素手で桂木様を引き裂き、命を奪っていた筈です」
「そうね……」
 考えに没頭する魅雪の長い髪が風に吹かれ、粉雪と踊った。再び、瞳に青白い光が浮かぶ。
「いかに元は強大な存在とは言え、今はまだ目醒めたばかり。わたくしたちから必死に逃げようとする中、たまたま出会った警察官に驚き、反射的に発砲したに過ぎないのではないかと」
「華多岡。『奴』の気配は分かる?」
「残念ながら……」
 黒いコートの従者は、大きく首を横に振った。
「つい先程まで、邪悪な妖気を肌にひりつくほど強く感じていたのですが……今は全く分かりません」
「わたしも同じだわ」
 魅雪の瞳が琥珀色に戻る。
「取り憑いた人間の肉体に、完全に埋没したのではないかと思われます」
「だとしたら妖気も消えて、外見からは分からないわね」
「やっかいなことでございます」
「でも、鋭次郎くんが生きていることに『奴』が気づいたら……」
「はい」
 華多岡は大きく頷いた。
「『奴』は粗暴な割に慎重な性格と聞いております。恐らく『桂木様が生きている理由』が気になり、いてもたってもいられなくなる筈」
 華多岡の大きな瞳が、冬の星々を集めたかのように煌いた。
「楽しいの? 華多岡」
「これほどの大仕事は、それこそ数百年に一度しか巡って来ませんが故に」
 背の高い従者は、仰々しく胸に手を当てて見せた。
「それにお嬢様。今宵は節分。鬼退治を始めるには、うってつけの夜でございます」
「そうね。悪い鬼は、退治しなきゃいけないわ」
 魅雪は雑居ビルの屋上から、街並みを見渡した。正面に小高い山の電波塔と、港に停泊した豪華客船の灯りが見える。N県N市は、江戸時代は海外との貿易で大いに活況を呈したらしいが、現在は観光を主体とした地方中核都市のひとつとなっている。
「完全に宿主に乗り移ったっていうことは、しばらくの間、奴の行動範囲が狭まるわね?」
「仰る通り。それこそ『人間並み』でございますから」
「結界を張るのよ。この小さな街に『奴』を閉じ込めるの」
「お嬢様も楽しそうでございます」
 少女は嫣然と微笑んだ。
「必ず『奴』を仕留める」
「御意」
 少女はゆっくりと天を見上げ、傷ついた右手を胸に当てた。
 華多岡は主の下に跪き、頭を垂れた。ふたりの瞳に、青白い光が灯る。
 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。ヘッドライトと赤い回転灯が裏通りに侵入してくるのを一瞥し、魅雪と華多岡は、ふたつの影となって夜の闇に消えていった。

<続く>

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いかがでしたか?
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次回は第1章。さっそく明日(2/4)に公開します。

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