コロナと村八分
都会にいるとわからないことはいっぱいある。
僕は都会と言えるほど都会というわけでもないが東京で生まれ育ったので、俗にいう田舎のコミュニティに関してはよくわからない。テレビで見るに、噂話がすぐに出回ったり、近所の人がみんな知り合いだったりするらしいが、そうなんだなあとしか思えない。
今読んでいる小説の中で、コロナの話が出てきている。コロナ禍が始まった2020年に、田舎に住んでいる実家が旅館の女子高生が、県外の人を泊まらせていると近所の人々に噂されて肩身狭い思いをしたり、その子の友達の姉の彼氏がコロナ陽性になったことで一悶着があったりと、当時を思い出すような内容が書かれていた。それを読んだ時に思った。これはほぼ村八分だ。
村八分というのは、以下のような意味である。
コロナが流行り始めた頃、まだ人数も少なくどういう病気か罹ったらどうなるのかわからず、未知の病に恐怖を抱いて過ごす日々だった。特に東京は人口も多く感染リスクも高いため気にしないで過ごせることの方が多かったが、田舎は感染者も少なく近所の人の多くが知り合いとなれば、自ずと誰が感染したかという噂はあっという間に広がると思う。そうなると気にしないで過ごせるなんてことは絶対にない。
コロナというのは自然災害だと思う。感染症は人災的な側面もあるが、どんなに自粛してても罹る人もいるので、人災とは言い切れない。自然災害は明確に敵として認識できるものではない。理不尽、という言葉を投げかけるしかないくらい、仕方ないものである。そうなってくると、そのやるせない気持ちのやり場がなくなり、人々は明確な敵を作りたがる。それが、感染者であり濃厚接触者だ。
感染症の対策として感染者や濃厚接触者に近づかないというのは一般的だと思う。ただ、それはあくまで感染者や濃厚接触者であり、”病原菌を持っている可能性が高いと思われる人に近い人”や”感染者の濃厚接触者の濃厚接触者”のような人に対しての話ではない。敵の範囲を広げて爪弾きにしていい理屈にはならない。自分と身の周りの人を守るためとはいえ、それ以外の”危ないと思われる人”をそれ以外のみんなで蔑視していい理由にはならない。そうやって敵を作って田舎社会から除け者にするのはまさに、村八分のようなものである。
もし、僕が田舎に生まれて今とは違う価値観で育っていたらこういう視点は持たなかったのかもしれない。ただ、今の自分が思うのは、世界がしんどい時こそ思いやりが大切であるということだ。自分が相手にかける言葉や視線は、そのまま自分に返ってくる。もし自分がコロナに罹った時に友達だと思っていた人に蔑視されたら、絶対に傷つく。そんなことは絶対にしてはいけない。
理不尽に対してのやるせない気持ちを、別の仮想敵を作ってぶつけるくらいなら、みんなで気持ちを共有して軽くしたい。改めてそう思えたことは、コロナの功罪かもしれない。それにしては罪の大きさと釣り合わない気がしてならない。
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