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kiseki

とにかく生きてると複雑極まりないので、単純に奇跡を起こそうと思った。

自分にとっての奇跡というのは、何かしらの力により周囲を自分のありたい世界にすることで好き勝手に生きれるということ。より具体的には家族は健康で、俺は文章を書き続けられ、時々旅行に行ける生活になること。すぐに思いつのは時間と金が必要だ。

そのために仕事をしているわけだけれど、時間は当然なくなり、家族もそれぞれの仕事、勉強があって周囲のサポートを互いにしながら時々は無理をして生活を成り立たせる。でも、ちょっと意味が分からなくなる、生活のために生活が苦しくなる。

だから、想像できないタイミングと力で奇跡を起こす必要があって、俺がそれを起こせればいいと思った。どうやったら起きるのか、何が必要なのか全く分からないけどやればいいと思った。

奇跡というのは起きないモノじゃない。願えば起きるモノでもないけれど意味が分からないタイミングでそれは起きる。タイミング、感情、行動、環境、運、他人の援助などそれぞれがうまく溶け合って何か成る。その中で自分にできるものは、感情と行動を整えるぐらいの非力だけれど、いつかはそれが起きる。

最初にそれが起きたと思ったのは、小学生の頃。俺が好きな子が俺を好きだったこと。小学生の恋愛で内容はしょうもないが、その時の俺にとっては好きな子が全てだった。世界があからさまに変化したし、人を好きになる素晴らしさとそれを失う辛さを知れたた。そのためにすごく努力をしたわけでもない。ただ、流れに身を任せていただけの生活だった。「あの子も俺を好きだったらいいな」なんて願ったぐらいか。

それはおそらく偶然だ。俺にとって都合の良い現実が訪れただけのもの。スピリチュアルなんてものも関係なくたまたまの現実があった。だからこそ起こせる、と思った。いくつものを現実という生活を繰り返していけばいつかはそれが起きる。都合の悪い現実も何度も乗り越えれば確率的にはいつか成る。

奇跡が起きるまでは座して待つぐらいの気持ちでいればいい。それまではただ「自分」を生きることの繰り返しだ。繰り返しの果てに何かが形成されて想像できない先を経験できる。自分を反映しない努力に意味はあったか?他人のアドバイスはどれほど貢献したか?無理やりに価値を見出していないか?俺はすぐに返答できる。

じゃあ、なぜ奇跡は「待つ」のでなく「起こす」なのか?奇跡の形はそれぞれで、自分に合った形があり、それには上記した通り自分の感情と行動が少なからずも影響するからだ。影響するからこそ、いつかは「自分の」奇跡が起き、影響するからこそ「起こす」ものであり、そのために「自分」を生きるに限ってくる。

あと、起こすものだと考えていた方がいくらか人生は楽しい。事実は受け入れるがそれでも「自分」が影響する現実はあると知っていれば行動は能動で楽しい。「今日もきっと大したことのない1日だけれど、やろうぜ。」と思える。能動と諦めがより奇跡を自分濃くして、他人に想像させない将来が先にあるんじゃないか。

精進します。