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自分問答

またここに来た。

目を開けた私の視界に広がるのは薄汚れたコンクリートの端だ。視線を伸ばせば更に色の濃くなったヘドロ混じりの汚水に行き当たる。だぷだぷと濁った音を聞いて私はすぐさま顔を上げて右上を見た。黒い円形に切り取られた青い空と濁った海。ここは私の心象風景、橋の下だ。

左を見ようとは思わない。そこは真っ暗くて汚くてそして静かだ。ただ死が流れてくるだけの深淵なる暗闇だ。私は此岸と彼岸の、世界と自分の、自己と他者との狭間に立って何かを見送っている。そういう場所だ。
再び黒い鏡の様に艶だった汚水に目を落とすと、ウジの沸いた死体がゆっくりと海に流れ出ていく。私は考える。あれは、いつの私だろうか?

「昨日かな」

と正面から声が聞こえた。「或いは明日かもしれない」

私の真正面、巨大な円形水路の出口付近、外の明かりが辛うじて差し込むこの狭間に、女が座っている。女だろうか?長い髪と華奢な体の線を見るに女だ。けれども声はおぞましいほど低く甘く、そして優しい。黒いスーツを身にまとった女が黒い椅子に足を組んで座っている。

「明日ならいいな」

と毒づいて私もまた彼(彼女)の正面に腰掛けた。ここに来るのはいつも唐突で、私が何かしらの怒りを覚えた時である。

海風が吹き込んで、まずヘドロの匂いを吹き払う。それでも鼻につく刺激臭は私自身の自己愛だ。

「議長」

と私は彼(彼女)を呼んだ。私はその人物の名を知らない。私であろうけれども私ではない。私の思考の外から私を批判し侮辱し屈服させる顔の見えないサディズムだろう、と私は認識している。もやのかかった表情は見えず口元には絶えず侮蔑の笑みが浮かんでいる。

「憎しみかい?」

と議長が笑った。私は眉を潜める。

「そうだろうな」とだけ答えた。

「自分は愛さなきゃダメだろう?どんな状況でも生きていくためには自己の肯定を行わなきゃな?自分を褒める方法なんて山ほどある、Twitterのフォロワー数、今日行った一善、最近だと仕事に行くだけでも十分に自己評価を高めることができるさ、お手軽じゃないか」
身振り手振りで一気にそれを語った議長は最後に身を乗り出して付け加える。
「さあ、救われろよ。インスタントに」

苦い。議長の言葉はいつも苦い。私が憎しみを覚えた時、この心象世界は肥大化し私の眼前に姿を顕す。憎しみに効く妙薬だ。だから私は自虐と自己批判を繰り返す。傲慢な人間の特権だ。

「傲慢な人間の特権だよな。自己批判の結果安心を得るだなんて」
「書くこともそう。ようはてめえが安心したいだけだ」

この勝負はいつも負け戦になる。何を言っても議長には敵わない。議長の前に立つと私は幼い頃、一人でトランプのババ抜きをした事を思い出す。自分の意識と記憶を騙し、自分外からのサプライズを待つ。孤独な人間の滑稽な遊戯。

「みんな安心をしたい。もちろん私も安心したい。だけど安心だけでは嫌だ」
「高慢だな」
「酷い様だ」

今度は私が続けた。

「物語などそもそも、こうあったらいいという存在しない他者を作り出し、自分の思うように動かせる、一つの自慰みたいなもんだ。都合のいいバイブレーター。物語はいつも最後は自分の理想の最後を迎える。私以外世界ではないから当然だな、だが」

私はそこでまず言葉を切った。自分を斬り付ける覚悟を自分に言い聞かせ、汚水を見た。次に流れてくる死体は私だろう。

「許せない物語はどうなる」

「それはつまり他人の世界が許せない、ということになる。世界は断絶し、私の世界は拡張しない。私の世界は選択的拡張となって、枝葉を伸ばしていくだけだ、ならば新しい世界新しい芽吹きは私の世界に存在しなくなる」
「必要ない」
と端的に議長は切った。そして笑った。
「綺麗事を抜かすな」
今度は議長の指が私の顔を指した。心臓を射抜かれている様で、笑みが洩れた。

「クソみたいな懸念を抜かすな。お前をブチまけて崩してやる黙って聞けグズが。てめえが何をお綺麗に纏まろうとしてんのか知らねえが、
前提を無視した議論に意味はねえ。認めろさっさと、自分をアゲて他人をサゲる作風の小説がクソほど気持ち悪いしうざってえってな、話はそこからだ」

瞳を右に向けて憮然とした顔で頷いた。はい。議長にかなうわけがない。

ここは橋の下だ。自分の醜い感情も怒りも憎しみもこの狭間で死体になって流れるだけだ。だからいい、自分は愚かである事を選択しよう。それこそが私の決定である。青く澄んでいた空は突然、黒く眩い星空へとなり変わった。我ら二人を照らすランプの火は暖かく、確かの人の血液の色をしている。

「自分の憎しい他人の属性を、勝手にこうであろうと決め打ちしてそれをいじる事なく文中に持ってこれる精神、そこはかとなく漏れ出る自己愛の臭気、すまん、たまらなかったんだ」

笑って私は議長へと告白した。議長も腕を組んだまま高笑いをしている。

「だがやはり自分はどうであるか?を思い返す。私は憎しいモノをカテゴリー分けしていないか。ステレオタイプの悪役に全ての罪を着せていないか」
「そこは美意識だろうな」
議長が答えた。
「悪役には美意識が必要だ」
「悪役が主人公なら?」
「凡夫さ」
「だが悪事をなすとするならばそれはそれなりの大仕事だ」
「やはり信念と美意識だろう?」

議長に言われて、ふむと呟いた。ランプの明かりが海風に揺れた。しとしとと打ち返す汚泥の音が私の耳に優しかった。

「なんの事はない安心したかっただけか、私は」
「臆病者め」議長がまた毒づいた。
「臆病者だからな、譲れん物があったらしい」私が笑うと議長のただでさえ見えにくい顔が更に黒く歪んで見えた。そろそろこの世界も消える頃合いだろう。ランプの明かりも小さくなってきている。

「私は私でいよう。私が私である事を脅かされそうになったならまた私はここに来るだろう。だからまあ、お前も私を毒づく事を忘れんでくれ。傲慢な人間は自己批判を無くして仕舞えば価値など無いに等しいからな」

呼びかけたと同時にランプが消えた。議長から返事はなかったけれどもあかりの消えるその瞬間、侮蔑を浮かべた口元が少しだけ柔ぐのを私は見過ごしはしなかった。

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