逃避行一泊二日(逃亡前夜編)

物心ついた時からずっとどこかに逃げたかった。どこにかは分からない。けれど、高校に向かう電車の中で、一人きりの家の中で、人混みの喧騒の中で、私はいつも逃げたかった。その衝動に駆られる度に臆病な理性がそれを窘め、実際に行動に移す事は出来なかった。

社会人になって半年が経った頃、私はとても疲れていた。就職した先は定時や残業代という概念が存在せず、朝は6:50分に出勤して20:00に帰るという生活を送っていた。それに見合う手取りという訳でもなく、仕事にやりがいがある訳ではなく、鏡に映る顔は日に日に疲れを滲ませていた。毎日がその繰り返しで、この先も一生これが続くぐらいならいつ死んでもいいと思っていた。

ちょうどその頃、溜まった有給を処理せよと上からきつく御達しがあったらしく、私のような下っ端が2週間の有給を取れる事になった。私は本当に休んで良いのか疑いながら自分が抱えている仕事を確認した。幸いにもスケジュールに余裕があるものばかりで、有給をフルに休む事は難しいが最低でも1週間は休めそうだった。そう理解した瞬間から私は猛然と仕事に取り掛かった。貴重な休みを少しでも増やすために奮闘した。その決死の努力の結果、有給前までに大方の仕事を片付ける事ができた。

有給1日目、私はわざと寝坊をした。いつもの習慣で5時に起きたが、笑みを浮かべてもう一度布団にダイブした。二度寝ほど贅沢な時間の使い方はないと私は思う。掛け布団をぎゅっと抱きしめて目を瞑って、次に目を覚ました時時刻は12時を回っていた。それでもまだ時間にゆとりがあった。普段ならありえない事だ。そのままゆっくりストレッチをして、今度は掃除を始めた。換気のために窓を開けると暖かい太陽が差し込んでくる。数十秒日差しを浴びた後、しまいこんでいたクイックルワイパーを取り出し床の隅々まで滑らせる。驚くほど溜まったホコリを掃除シートごとゴミ箱に入れると、空気が綺麗になった気がした。お腹も減ったのでホットケーキを作った。薄力粉、強力粉、ベーキングパウダー、砂糖、卵を混ぜて、大きなフライパンに流し込んで焼いた。普段だったら洗い物を最小限にしようと電子レンジで調理できるものしか作らないので、ホットケーキを食べるのは就職して以来初めてのことだった。じわじわと漂う甘くて香ばしい匂いに、私の中の死んでいた何かがゆっくりと蘇るのを感じた。両面を香ばしい茶色に変えたホットケーキを大きな皿に載せ、メープルシロップをかけて、久しぶりに立ったままではなく机に置いて座って食べた。びっくりするほど美味しかった。夢中で食べた。最後の一欠片はメープルシロップにひたひたに浸して食べた。久しぶりに心から満たされた気になりながら、皿を片付けもせず窓の方にずりよって日差しを浴びた。体の奥で凝り固まっていたものがゆっくりと解けていく。そうしながら、「久しぶりに、人間に戻れた」そんな感想を抱いた。

私は過去に色々合ったせいか、自分の置かれた環境は私を大切にできるのかそうでないのか判断する力には優れていた。そして有害だと判断した際の行動力と瞬発力には優れているという自負もある。なので、この感想を抱いた時、

「よし、夜逃げしよう」

そう決心した。正確には夜に逃げる訳ではないのだが、職場に退職届を郵送で送りつけて、そのまま遠くに逃げてしまおうという訳だ。今まで散々私の逃亡を止めてきたはずの理性も今回に限っては私を止めなかった。その代わり、「何処に逃げるのか考えてからにしろ」とだけ忠告をした。なるほどその通り、なんとなく逃げたとしてもその後どうにもならなくなるなら自暴自棄と同じだ。私はあくまで正しく逃亡したいのだ。出来る事なら逃亡した先で健康で文化的な最低限度の生活を営みたい。そのためには、まず逃亡先の下見が必要だと考えた。そこまで決めたら話は早い。下見旅行に行こう。あわよくばそのまま永住しよう。海が近い場所がいい。食べ物が美味しい場所がいい。人がそんなにいない場所がいい。検索欄にそんな事を打ち込んで、最終的に行き先は静岡になった。決定打はYahooが画面いっぱいに浜松餃子とさわやかのハンバーグの美味しさを推してきた事だ。ついでに海もある。行くしかあるまい。静岡に私のような面倒な人間を採用してくれる職場はあるだろうか。人間として生きる事はできるだろうか。とりあえず旅行の準備をする前に、大学の恩師とゼミ仲間全員と家族に【仕事をやめて陶芸家になる、ところで静岡ってどんな食べ物が有名だっけ】という旨のメールを送った。なるべく重くならないように冗談も交えつつ現状を報告した。ゼミの仲間は殆どが私と同じ仕事をしているため、返ってきた反応は「やめるんだ、まあこの仕事しんどいし仕方がないよね」というものがほとんどだった。私のしている仕事は等しくブラックなため、全員が私の辛さを理解してくれた。共感ついでに陶芸家の知り合いを紹介してくれるという子や、焼き物のアクセサリーブランドの採用情報を教えてくれる子もいた。ごめん冗談だったんだ、という勇気は私にはなかった。大学の恩師からはURLだけが載ったメールが来た。開くと陶芸学校の入学手続きが書かれたページに飛ばされた。その後恩師から追加のメールが来た。【何焼きに興味がありますか】私は【美濃焼きです】と返信した。

そんなこんなで夜逃げの準備が終わった。準備とはいっても、荷物はカップ麺、缶詰、飲料水を詰めた登山用のリュックと、服やアクセサリー、通帳などを詰め込んだパチモンのブランドものの旅行鞄だけだった。中身のない人生だ、と思いながら荷物を車の荷台に詰め込む。いよいよ決行が明日に迫っていた。正直準備をするだけしたらすっかり心が軽くなっていたのだが、決行をやめたりはしない。今まで逃げたくてもできなかったのだから、今の勢いを逃したら絶対に二度とできない。絶対にやるぞ、と自分に言い聞かせている時、同じ市に住んでいる友人から食事の誘いが入った。きっと彼女との食事も最後になるだろうと承諾し、近くのフレンチバイキングに向かった。社会人になってから初めて会う彼女は相変わらず元気そうだった。いつもニコニコとして、静かに相槌を打ち、それでも気を使わずに正直な意見を述べる彼女が好きだった。そんな彼女に近況を話し、逃亡する予定だという事は伏せて明日静岡に行く事を伝えると、

「私も行きたい」

という答えが返ってきた。私がえ、と固まっていると、彼女はニコニコとしたままマシンガンのように近況を話し出した。

「仕事が辛い、出来ない、新人だからとかそういうのじゃない、とにかくできない、やりたくて就いた仕事なのにできない、ミスが多すぎる、先輩に呆れられてる、遠回しに辞めたほうがいいって言われてる、何処でもいいから旅行行きたい、知り合いがいない場所に行きたい、連れてって」

彼女の勢いに気圧されしばらく相槌をうつだけのマシンと化した。彼女は話しながら皿に盛ったいくつものプリンタルトをばくばく食べた。彼女なりの間の取り方だったのだと思う。プリンタルトがなくなる頃、彼女は半泣きになっていた。

「もう、辛いんだ。何も考えたくないんだ。お願い、連れてって」

そのあまりに辛そうな様子に、私は今の自分の状況を重ねた。彼女は私と違って責任感が強く、辛いから夜逃げしようなんて思う事は決して思わないタイプだ。逆に言えば、辛い事があっても我慢しよう、耐えようと思ってしまうタイプだ。そんな彼女がこんなに弱気になる所を見るのは初めてだった。もし私が断ってしまえば、最悪彼女は死んでしまうかもしれない。そんな事を思った。

「いいよ、一緒に行こう。宿無し旅でよければ」

気がつけばそう返事をしていた。

「いいの?」

「いいよ。でも明日だけど大丈夫?」

「うん。明日荷物持ってほほえみちゃんの家に行くね」

「分かった、迎えに行く」

彼女は少しだけ表情を緩めて、食後のグラタンを取りに行った。私も少し安心した。夜逃げのための下見とはいえ、一人では少し心細かったからだ。全てを捨てて逃げる前に、彼女との思い出が出来るならそれはそれで嬉しいと思った。


(逃亡1日目編に続く)

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