逃避行一泊二日(旅1日目編)

決行の日、生憎雨が降っていた。私は駅のロータリーでオンボロ車に乗りながら今日来るはずの彼女を待っていた。その間今後のことについて考えていた。逃げてからどうしよう。新しい家はどうやって借りたらいいだろう。再就職するにも面接で「どうしてこんな短期間で仕事を辞めたのか」と突っ込まれたら何と答えよう。逃げたかったからですなんて答える訳にもいくまい。そういえば家族からこの前のメールの返信はない。ついに見限られたのだろうか。だとしたら私が知らない私を知る人が1/3程度減ってしまうな。まあどうでもいいか。姉としか仲良くないし。姉は元気だろうか。いい加減シンクに溜まった食器は洗っただろうか。カビは生えていないだろうか。そんな風に、思考があらぬ方向に向きかけた時、彼女(便宜上以下Mと表記する)がこちらへと走ってくるのが見えた。

「おまたせ〜」

Mはいつものようにニコニコと笑って助手席に乗り込んだ。彼女の荷物はハンドボールしか入らないような大きさの肩掛けカバンと、薄っぺらい紙袋のみだった。荷台に全財産を載せている私からしたら少なすぎるように思えた。

「え、荷物それだけ?」

「うん、足りなかったら向こうで買う」

Mはカバンの紐を肩から外して、紙袋を私に向けて広げてみせた。

「ねね、花火持ってきたからやろ」

覗き込んでみると、そこにはスーパーにでも売っているような手持ち花火詰め合わせセットが入っていた。

「職場で余ったのもらってきたの、やろ」

「いいねえ。やれる場所探そっか」

「行くとこの近くにないの?」

「いや、行くとこまだ決めてないから」

「え?そうなの?」

「うん、食べたいものしか考えてない。あ、あと海はどっか行けたらいいな」

彼女は大きな目をさらに見開いて、ふうん、と言った。呆れられただろうか、と思ったが、彼女は不満だったり呆れたりしたら素直に言葉にするタイプなので、純粋に私の食い気に満ちた杜撰な計画に驚いたのだと思う。

「でね、Mちゃんにはナビゲートしながら、静岡の行きたい場所探して欲しいんだ。私は最悪海さえ行ければもう全部どうでもいいから、Mちゃんの行きたいとこに行こう」

Mは分かった〜、とのんびり言って、スマホを取り出し、マップアプリを開いた。

「で、とりあえずどうする?静岡のどこ目指して行く?」

「うーん浜松かなぁ」

「はーい、じゃあ目的地浜松市に設定するね」

そんな風に、私の逃避行はなんとなくで始まった。長距離運転するのは初めてだったので最初は緊張したが、携帯から流れる軽快な音楽と次々に変わっていく景色に、だんだんと堪らない気持ちが湧き上がってきた。

「ねーこのナビ変なとこ案内してくる〜」

Mがそう言って携帯をクルクルと回すのを視界の隅で見ながら、私は喉を鳴らすように笑った。気の置けない友人と新しい事をするのはいつだってときめく。M(もしくはGoogle map)の案内を聞いているうちに川沿いの幅の狭い土手を綱渡りのように進んだり、小さ過ぎるトンネルをギリギリで通り抜けたり300°ぐらいのほぼUターンのようなカーブを叫びながら曲がったりした。その度に私はゲラゲラと笑い、Mはごめんねえ、と言って苦笑いした。

途中、私の地元を通った。私は社会人になると同時に地元には二度と戻らないつもりでいたので、社会人になってから一度も帰省はしていなかった。それでも半年帰っていないだけだというのに、まるで知らない場所のように思えた。この時、そういえば一昨日はお盆だった、と思い出した。

「あ、あの角曲がったら私の高校」

「へー、なんていう高校だっけ」

「○○高校」

「それ7km先って表示出てるよ」

「あれっ、そうだっけ?」

故郷を通り過ぎながらした会話はそれぐらいだった。故郷に抱いた感想もその程度だった。

しばらく走り続けると、体感的に道の難易度が増した。130度ぐらいの右折の道があったりただの左折なのに3度チャレンジしてようやく出来るような交差点もあった。

「ねえ、なんか道の難易度おかしくない?」

Mにそう伝えると、彼女はじっとスマホを見つめて、そして嬉しそうに言った。

「静岡突入してた!」

Mがそういってすぐ、私たちの車は海の上に掛けられた道路の上にあった。坂を上がるようにして進むと、左右に群青色の海が見えた。いつのまにか空は晴れていた。

「海だーーーー!!!」

私は前を向いたまま叫んで、車前方の窓を全開にした。風が激しく車内に吹き込んだ。風の音でRed fooのラップが掻き消される。暴風じみた風に髪の毛を掻き乱されながら私達は走り続けた。8月の暑さの中で浴びる風は中々に心地よく爽快であった。何より喧しい蝉の鳴き声も聞こえない。海の上の道は、死と隣り合わせであること以外はいい事づくめだ。海の上を通り過ぎて窓を閉めるとPENTATONIXの奏でる綺麗なハーモニーがよく聞こえた。

「浜松、ついたよ」

Mがそう告げる。道路そばの標識を見ると、確かに“浜松市”の表記がある。胸の内に、初めての長距離運転をやりきった充実感がじんわりと滲み出す。と、そういえばまだ行きたいところを決めていなかったと思い出した。

「そういえば、行きたいとこ決まった?任せっきりにしてたけど」

Mにそう尋ねると、Mは一応、と言ってぬくもりの森という場所を提案した。私は二つ返事で了承し、行き先をぬくもりの森へ設定した。

ぬくもりの森へはすぐに着いた。Google mapの案内は正確で、車に乗った私達をぬくもりの森へ直接案内しようとした。結果道の入り口に立った警備員さんに止められ、駐車場は別にあるよ、と苦笑いされながら教えてもらえた。すぐに駐車場に向かい、スペースを区切るための赤いコーンを一本薙ぎ倒しながら駐車を完了させた。

「着いたねぇ」

Mが伸びをしながら言った。私は倒したコーンを立て直し、遠くでこちらを見守る警備員さんに謝罪の意を込めたお辞儀を深々としてから答えた。

「意外となんとかなるもんだね、運転って」

「というか、疲れたでしょ?お疲れ様。レンタカーだったら代われたけど」

「全然、気にしないで」

そんな事を話しながらチケットを買い、少し歩いて民家の間にあるような坂道を登った。すると小さな森が現れ、店のようなものが数件あった。ちょうど小雨が降ってきたせいか、店の入り口から沢山の人が入っているのが見えた。道のそばには「ぬくもりの森」と書かれた看板が設置されている。

「わぁ、雨の匂い〜」

Mはニコニコとしてそんな感想を述べた。なんとなく昨日よりも元気になったようだった。私達はとりあえずどこか屋根のある場所に避難する事に決め、400円でスープを買ってパラソルのついたテーブルの所に落ち着いた。辺りにはひんやりとした清々しい空気が漂っていた。雨に濡れて生き生きと艶めいた木々の葉から滴る雨水が光を受けて輝く様は美しかった。

「いや〜、いいね」

「うん。誰も知り合いが居ないってだけで落ち着ける」

私達はスープをちびちび啜りながらしみじみと言った。スープは明らかにスーパーで売っている12個入りのレトルトものだったが、それでも旅先で飲むとなんだか美味しい。しばらく体の力を抜いてただただ雰囲気を味わっていると、屋根と居場所がある今のうちに次に行く場所の計画を立てた方が良いのでは、という事に気付いた。

「慌ただしくて申し訳ないんだけどさ、次行くとこ今の内決めよ。二人でちゃんと決められるの今しかないし」

そう提案し、お互いにスマホを取り出して行きたい所を検索する事にした。とはいえ私はすでにYahooに散々頼っていたので、今度は静岡出身の友人に頼る事にした。LINEで今静岡にいる事、何も決めていない事、おすすめスポットを教えてほしいという事を告げると、返事はすぐに返ってきた。

【長坂養蜂場のはちみつソフトクリームおススメだよ!】

検索してみるとなるほど美味しそうなソフトクリームの写真が出てくる。ここに行こう、そう決心したもののすぐに定休日である事に気がつき一瞬で諦めた。仕方がない、こういう事もあるだろう。

「……ごめんM、いいとこ見つかんなかった。行きたい所見つかった?」

そう尋ねると、Mはオルゴールミュージアムに行きたいと言った。検索すると、世界中から集められた多種多様なオルゴールの画像が出てくる。正直私はカケラも興味がそそらなかったが、この旅の醍醐味は行き当たりばったりな事なのでここに行く事にした。早速車に戻りMにナビを任せて走り出す。

「そういえばMって、知り合った頃からオルゴールとかガラス細工とか綺麗なものが好きだったもんね。静岡にこんな場所があってラッキーだったね」

途中、私がそんな事を言った時、Mが答えを躊躇うたような気配がした。おや、と思いながら返事を待ったが、Mは何も答えなかった。まるで車内に流れるBeyonceの曲に聴き入っているようだった。

道を大幅に間違えたりしながらも、なんとか浜名湖パルパルの駐車場に着くことができた。オルゴール博物館に行くにはここからゴンドラに乗らなければならなかった。早速チケットを買って乗り込むと、家族連れと一緒になった。私達は乗り物の端の方で窓の外を眺めていた。横にいる彼女は物思いに耽るような様子で、流れ行く風景を見つめていた。オルゴール博物館にはすぐに着いた。やる気のない係員が私達を奥へ奥へと導いていく。博物館というだけあって古いものから新しいものまで様々なオルゴールが置いてあり、天井までの大きさがある巨大なオルゴールもあった。実際の演奏を聞いたが、パブか何かの客寄せに使われていただけあってノリが良くけたたましい音色だった。オルゴールだけではなく、中には他の楽器も置いてあったりした。私は初めて見るカリヨンに興奮しながら写真を撮っていた。そしてふとMの方を振り返ると、彼女はまるで浮かない表情で少年の人形が乗った乗ったオルゴールを見つめていた。Mは私の視線に気付くと振り返り、軽く微笑んで言った。

「ねね、もうすぐ屋上の鐘が鳴るんだって。行ってみない?」

私は二つ返事で了承し、屋上へと上がった。外では雨が降り始めてしまったようで、沢山の客が室内から出ないまま、屋上の中央にある横並びの鐘が鳴り始めるのを待っていた。私達がついて5分程度経ってから、鐘が鳴り始めた。なんの曲だったかはもう忘れてしまったが、見事に半音ずつ音がズレていたのは覚えている。メンテナンスされてないんだろうなあ、なんて思っているとあっという間に演奏は終わった。人がさっと引いていき、私達と数人だけが屋上に残っていた。

「あのさ」

ふいに、Mが口を開いた。

「なに?」

「もう、帰ろっか」

私は随分早いな、と思いながらも了承し、一応尋ねる。

「もういいの?一階にオルゴール売り場あったけど、見なくていいの?」

「うん」

その時のMの顔をなんと表したらいいか今でも分からない。Mは物悲しいような、諦めたような、そんな苦笑いを浮かべていた。

ゴンドラ乗り場に行くと、偶然私達が最初にゴンドラに乗り込める事になった。私達は隅の席に座り、ゴンドラが下に着くのを待った。後ろでは子供が景色を見てはしゃぐ声が聞こえる。

「M、どうだった?」

私が尋ねると、Mはうん、と言って少し黙った。そして、こちらの様子を伺うように見て、私が眉をあげて続きを促すと、ニコニコ、というほどではないが、少し微笑んで、一呼吸置いてから答えた。

「前の私だったらすごい楽しかったんだろうなって思った。なんか、就職してからさ、自分が何が好きだったのか分かんなくなっちゃった」

Mの仕事は、彼女がずっと目指していたものであった。大学でもその仕事に着くためにものすごく努力していたのを横で見ていたから、彼女の熱意も知っていた。だが、今の彼女はまるで熱が冷めていく途中のようだった。私はなんと答えたらいいか分からず、そっか、とだけ答えて前を見た。ゴンドラの窓に雨が振り付けていた。さっきより強まったようだった。

下に着くと、彼女はパルパルの売店で白えび味のポテトチップスを購入した。これ美味しそう〜、とニコニコする彼女にほほえみかけ、よかったねと言った。そのまま駐車場に戻り、この後どうするかを話し合った。

「今日車中泊なんでしょ?じゃあもう温泉入ってご飯食べてさ、どこに泊まるか決めよ。その後海で花火しよ〜」

「そうだね。じゃあ海の近くで車を一晩中止められるとこ探そっか」

結果的に、今夜の宿は潮見坂の駐車場に決まった。海岸の隣に位置するという素晴らしい立地だった。温泉は検索ページの3番目辺りにあった場所にした。お互いが一つ一つにこだわらないのが私と彼女が長く付き合っている理由の一つだ。私達は早速温泉にナビを設定して出発した。雨が降る静岡の道ははっきり言って悪路だった。私は細かい悲鳴を刻みながらハンドルを切り、その度にMはフフフと笑った。温泉に着くと行列が出来ていたが、20分程度で温泉に入る事が出来た。温泉の中で私達はお互いの体のパーツでどこが羨ましいだのなんだのと褒めあった。彼女は冗談でも人を貶したりしない人間であるから、ガンジーだとかリリオウカラニだとか言われた私がこんな会話をできるのは彼女だけだ。ひとしきり話した後お風呂から上がって、食事の話になった。丁度温泉に食事処があったのでそこで食べる事にした。案内された席は大きなガラス窓の側だった。熱々の天ぷら蕎麦を食べながら、私はウットリと窓の方を見た。雨は止んだようだった。

「なんか、帰りたくないなあ」

ついそんな言葉が漏れた。下見旅行だというのに、私の心が夜逃げ先を静岡に決めてしまっていた。

「私も。天ぷら美味しかったし幸せ!来てよかった」

Mが安らいだような笑みを浮かべて言った。私は彼女から明るい言葉が聞けて安堵した。この旅がいい思い出で終われるならそれが一番だ。けれど、私も随分気が緩んでいたのか、ついこう言っってしまった。

「そういえばさ、私仕事辞めるんだよね」

「えっ」

Mはひどく驚いたようで、大きな目を見開いて肩をすくめた。

「え?本当に?」

「うん」

「いつ?」

「すぐ」

「でも、ほほえみちゃん、その仕事に就くのが夢だったんじゃないの?」

Mにそう言われてハッとする。そういえば今の仕事は私の夢だったではないか。昔の私のような子を救ってあげたくて、この仕事に就いたのではなかったか。けれど、今は自分の夢さえ忘れてしまうほど人生に余裕がなかった。多忙すぎる生活。雀の涙ほどの給与。先の見えない不安。この仕事に就いた事への後悔。不満。怨嗟。私の仕事への思いはこれらの要素だけで構成されていた。口角が次第に下がっていくのを自覚して慌てて上げる。仮にも友人との旅行だ、気を使わせる訳にはいかない。

「でも、もういいや。満足した。うん。次は賄い食べられる所がいいな」

胸の中の仄暗い気持ちを冗談で誤魔化すと、Mはニコニコと笑って言った。

「まあでも、確かにそういう道もいいのかもね。私も、」

Mがそこまで言いかけた時、丁度注文したアイスが届いた。Mはやったー、アイスだ、と喜んで食べ始めた。私もアイスにスプーンをさしながら、胸の中でむくりと起き上がった不安が急速に膨らむのを感じた。

アイスを食べ終わると後ろ髪を引っ張られるような気持ちで食事処から出て車に乗り込んだ。Mには目的の道の駅までのナビを再び任せた。Mが目的地を設定するまでに再び雨が降り始め、フロントガラスに叩きつけられた雨粒がぐにゃりと潰れた。街灯がそれを照らし、薄く緑がかった色の模様が次々と私の腕に映し出される。まるで別の生き物になったようだった。そんな風にして、Mがスマホをくるくると回すのが止まるのを待って出発した。Google Map は相変わらずとんでもない道を案内してきて、通らなくていい海の上の道を20分ほど走らされる事になった。そしてバイパスの途中にある潮見坂を一度見逃しUターンする羽目にもなったが、二度目で無事入ることができた。雨はすでに止んでいた。

「着いたねえ」

「そうだねえ」

まだ8時だというのに、眠気が襲ってきていた。それでもせっかく浜辺が近くにあるのだからと花火をする事に決めた。私達は目を擦りながら、消火用の水を補給しにトイレに向かった。途中ベンチに丸々と太った野良猫がいてこちらをにらんでいた。撫でようと近づくと思い切り威嚇され、なるほど道の駅のボスなのかと手を引いた。ホットスナックやドリンクの自販機の光が煌々と照らす地面を歩きながら、GoogleMapの案内を頼りに夜の道を歩いた。海風だろうか、度々風が吹いて私達の髪を攫った。体を吹き抜ける風が気持ちよかったが少し肌寒かった。歩きながら、Mの持つ紙袋がガサガサと音を立てていた。

「ねえ、ほほえみちゃん」

「なに?」

「本当に仕事辞めるの?」

「うーん、うん」

一瞬迷ったものの、しっかりと肯定した。そうしなければ、遠くない未来に私は死ぬだろうという確信があった。それが過労死にせよ自分で選択した死にせよ、だ。それを避けるためには辞める以外に道はなかった。Mはそっか、と呟いて何か考えている様子だった。しばらく歩くと道の右側に浜辺が見えてきて、更に遠くの方に真っ黒い海が見えた。ほぼ無音で波が引き、次の瞬間に白い線が幾重にも重なる光景に少し恐ろしさを感じながらも、目的地はもうすぐだと分かった。Google Mapを切り、下に降りる階段はどこかと探した。けれどいくら探しても階段は見つからなかった。まさか、と再びGoogleMapを立ち上げて航空写真で周辺を見てみると、見事に下に降りる経路がない。またGoogleMapにしてやられた、と頭を抱えると、それに追い打ちをかけるように冷たい風が強く吹いた。背後でMの持つ紙袋が騒がしく揺れた。私はここまで歩かせたのに申し訳ないなあなどと思いつつ、浜辺に降りれそうもない事を伝えようとMの方を向いた。Mは大きな美しい目でじっと私を見つめていた。それに魅入られるように動けなくなった私と彼女の側を車が勢い良く通り過ぎていく。通り過ぎ行く車のライトにまだらに照らされる度、彼女の真っ黒い目が輝いた。なんだか知らない人のように思えた。

「ほほえみちゃん」

「なに」

緊張で思わず低い声が出た。声だけはいつも通りのMが、薄暗い暗闇の向こうで言った。

「私もね、仕事やめようって思った事、何度もあるよ。でも、怖くて。だって私、この仕事に就く事を人生の目標にしてきたから」

Mの顔には微笑さえ浮かんでいなかった。水平になった口角をそのままに、唇だけが淡々と動く。

「ねえ、もしこの仕事やめたら、私、何になればいいの。これからどうしたらいいの?」

Mが言い切った後、また強くて冷たい海風が吹いた。私は彼女の目から視線を外せないまま、ただ何も答えられず黙っていた。それは私がずっと抱いていた不安でもあったからだ。

私達が生きる為には夢を捨てなければならない。そうすれば死ぬ事はないだろう。でも、その後は?私達は既に何にでもなれるような歳ではない。セーブデータを遡って丁度いいところで再開する事だってできない。夢を見ることさえ出来なくなってしまったのだ。

だとしたら、私達は、これからどうやって生きていけばいいのだろう?


その後私は何も答えず、Mもそれに対して咎めることはなかった。どちらからともなく道の駅の方に向かって歩きだし、無言で車に乗り込んだ。お互い席を限界まで倒して背中を預け、上着をかぶって目を瞑った。瞼の裏側で極彩色の靄が渦巻いていた。頭の奥ではさっきのMの言葉が反響し続けていた。その夜は悪夢を見た。私の胸にナイフが刺さっていて血が止まらない光景を、ただただ見つめることしか出来ない夢だった。







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