見出し画像

父の看取り

毎日更新されている方の記事を読むのが、私の日課になっている。

お母様の旅立ちに寄り添う過程が、昨年の父と重なるところがあり、また「生きる、死ぬ」をいうデリケートな話題に、真摯に向き合ってらっしゃるのが刻々に伝わってくるからだ。


今日の記事を読んで、私の中に浮かんだことは
「私は、お父さんの旅立ちの一切に悔いはない」
ということだった。

父は昨年5月に末期がんが発見され、手術など出来るような状態でもなく
ソーシャルワーカーさんにキッパリと
「残った時間はご家族で、ご自宅でお過ごしなさることをお勧めします」
と告げられた。

昨年の今頃は今だにコロナの警戒は厳しく、
病院は家族のみの指定された時間のみ、で原則病棟への立ち入りは禁止だった。
ただ、父の今生に残された時間を鑑みて、特別にiPad越しに隣室から会話することが許可された。

父より1年ほど先に旅立った、父が愛してやまなかった愛犬の柴犬コロの骨壺を抱え、母と姉と私は昼下がりの病室で父と会話をした。
「元気?」「ご飯食べてる?」と当たり障りのない会話の中で、
「お父さん、今、幸せだよ」
と私の口から零れた。

父への気遣いや、周りの医療スタッフの皆さんへの見栄なのではない
全く芝居がかる雰囲気もなく、ただそれだけの言葉。
「…うん、わかったよ」
と、痛み止めの中で、分かっているのか分かっていないのかの父からの一言。

私にはそれが全てなのだ。

まさか、その5日後にいそいそと旅立つとは思いもしなかったし、
明け方に父は息を引き取ったので、家族は誰も旅立ちに立ち会えなかった。
けれども、私は父の看取りについて振り返るたびに
「私は、父に「私は幸せだ」と自分の口から伝えられた」
と、それ以上もそれ以下も望んでいない。清々しいほどに。
あれは、あの瞬間そのものが、私と父や家族の精一杯だった。
なので、(あくまでも私は)コロナによる制限による父の看取りに悔いはない。

私は、あの時も、今も、確かに幸せである。

父とコロ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?