0と1 第十話 独りの0


私は4時半にいつも起きて、ハタキかけし、床を乾拭きする。
薬缶にたっぷり水をはり、蓋をはずして8分以上火にかける。
白湯を作る。

子供のときからの習慣だ。
といっても、祖父母と生活していた間の習慣だ。

あの頃に、あの場所に戻りたい。

祖父母がいて、山に広い空に、身近に感じた生き物の気配のする世界に。

風が力強く吹き抜け、太陽を落ちていくのを見ていた。なんの邪魔もなく見渡せる高原の空と山の境界線の景色も。

全てが鮮やかで、生きて居る気配がして、全から発せられる、生命のうねりを肌で感じ取るあの空気感。

目を瞑ると、夏の夕闇の匂いがする。地面からは、から熱を帯びた土のむせるような香り。苦くて涼味のある胡瓜の葉の香り。

目を開けていても、どんなに見据えようとしても暗闇しか見えない。

夜の帳。

僅かな光は、微かにマゼンタ色を含んだ藍色の空が山肌の曲線に残るだけ。

目を開けても見えない世界が広がる其の瞬間は、その先に魑魅魍魎が潜む気配も確かにあり、怖いが魅力的だ。

幼い頃の私は、そういう空間に強く惹かれて居た。死や冥界を感じるものを美しいと感じて居た。

始まりよりも、終わりという安息が必ずあるから。
そして次の始まりがその先に眠っているから。

森や山には死の匂い含まれている。

森で朽ちていく生き物の亡骸。

1日1日と崩れゆく。かつて生き物であった形が、崩れ中身が露出し、また別の生きたモノ達によって変化していく。

その様は、受け入れの儀式の様にみえた。
終わりから始まることの受け入れのようだと。

幼い頃ただただ見ていた。その様を見守る事が唯一の仕事みたいに。

村には子供も少なかったし、店もコンビニも何もない集落だった。殆どの時間を太陽と森と畑と小川で過ごした。

いつもそこには生きているモノがいて、死にゆくモノがいて、仲介者がいて、自分がいた。

それが世界だった。

飽きることなく朽ちていく様をみていた。

そんな世界を覗いている、いられる位置にいる自分に安心した。

子供ながらに、納得して居たのだと思う。

朽ちていくものを見ると、存在と共に役目があり、役目をひきうけるか、やめるか。そんなことを追憶の中で思う。

引き受け、やめるのはまた自分という存在の外側にある。

役は受動的でも能動的でもあるけど、始まりは受動なんだろう。

それは人間の意識だけでは分かりえない、生き物としての歴史の大きな流れのなかで、その都度浮かぶ役目。

与えられるわけでもなく、ただその役割を手にするかしないか、それさえも人間に委ねてくる。

人間は受け取ること、与えること、分け合うこと。その中で生き物の輝きを増す。

役目を引き受けることは、自分の核を知るきっかけになるだろう。自分が自分として生きるための働く。その役目。

それを祖母は「こわいがいきる」とよく言っていた。

治らない片足をさすりながら。

それは方言もあるけど、こわいは、疲れるという意味でもあって、

祖母は、その行いが正しいかなんて直ぐにはわからないし、不安で怖いが、それが地道な道で自分にしか歩けない道で、大変疲れる道だ。

と私に教えたかったのだろう。

夕闇が完全な闇になる。

トンボの羽音。肌と自然の吐息が自分との境目を作る。

自分の外にある胎動。

両親から引き取られた後の、祖父母と共に暮らした日々は私の人生の糧だ。

しかし、もう居ない。

かつての祖父母の家も土地も売り払われ、すでに他人の所有地にされた。今は放置された荒野だ。

何もかもが通り過ぎて行った。けれど今みたいに、目を瞑れば、あの夏の夕闇の前にいつでも立てる。

あの声も何度も、聞こうと思えば聞こえる。


0は、ベランダから夕焼けのそらを眺める。冬の夕暮れ。

もう1度目を瞑る。

あの日に接続する。

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