0と1   第六話 ぼくは

僕はずっと誰かの感情がわからなかった。
いや、わからないフリをしていた。

いつからだろう?


それを考えるといつも想い出す記憶がある。

ずっと昔。まだひらがなも書けないくらい幼い頃。



誰かが泣いていた。
ああ。弟だ。

痛いな。

弟のすすり泣く声に僕の体が痛むのだ。

「どうしたの?痛いの?」

弟は壊れた壁掛けのカラクリ時計を指差して
「壊れたの」 
と言う。

「壊れたから悲しいの?」

「ううん。違うの。僕のものにならなかったの。僕のにしようとしたら、鳩とれた。」

壊れていたのは鳩の時計だった。

左手には鳩の飾りが握られていた。

弟はまた泣きだした。
「僕わるくないよ。僕、僕のにしたかったんだ。僕の時計にしたらちゃんとかえす・・・」
泣きすぎてむせ返している、弟の背中をさする。
「大丈夫、大丈夫。」

僕は痛かった。身体中が全部、弟の感情の波にあたり、痛くてひりひりして、ずっとしょっぱいし、塩辛い。

誰かの感情が五感を全部乗っ取る。

これは、だれの感覚なのか?弟なのか?僕の自身のか?
わからない。

けど、体がそう反応するのだ、辛いからどうにかしたい。

弟の悲しみ苦しみが入ってきてるんだろうけど、味わう余裕もなく、この状況とこの感覚から自分を解放したい為に、弟にも自分にも都合の良い状況に転じられればいいのだが。

いつもこうだ。自分でどうにかしなくては。自分がどうにかしなくては。

追い詰めてくる。何かが責め立てる。


僕の意識はいくつかあって、乗り物みたいに乗り換えられる。でも、素に戻ると五感でキャッチしている弟の苦痛やらが体を乗っ取っているので何もかも冷静ではいられない。

その四苦八苦してる自分を俯瞰してみている場所へと一時的に移動する。

自分の周りの世界を整理整頓するためにこの感覚を使おうとする。

それは、あとから知ったことだが

肉食獣に捉えられた草食動物が死の間際、乖離を引き起こし死の苦痛、肉体の苦痛から分離することを本能でやるらしい。
僕はこの説は正しいと思う。

僕のやっていることは、それに近い気がするから。

意識を乗り換えてるのか、魂が移動したのか、正確にはわからないが生きてることは不思議だ。
その不思議も生きるために、自分であり続けるために在るのはわかるけど。

一つ。線をこえる。僕は僕ののなかを移動する。

意識の表面にはいつだって仮面がある。


仮面のもとにさえ来ればあとは導かれるだけ。一人の性格が話を片付けに取り掛かる。


状況は


鳩時計は隣の家から勝手に持ち出して来たらしい。この時計は1時間ごとにカラクリで時計のてっぺんにある小屋から鳩が出てくるという仕掛けがされている。

弟はどうしても手に入れたくなって持ち出して来たらしい。

鳩だけを分解してとった。本体はなんらかわりなく動いている。
「鳩、戻してあげようか。」
「鳩だけもらちゃ、だめだよね」
「だめだね。それは泥棒だ」

「・・・・」
弟は俯いた。


僕はとても痛かった。全身が。体の中心に穴があいてぐるぐるとなにか暗く辛く悲しい、そんなものがそこに流れ込んでくる。


これ以上、上手く意識を移動できない。僕はまた肉体の感覚のする側へ戻る。体に引っ張られる力は強い。


毎回誰かと居るとこの感覚に襲われる。

僕は僕のなかにある、境界線を行ったり来たりだ。

しかし、早めに事を片付けなくてはいけない。落ち着いて弟の起こしてしまったことを解決しなきゃ、母にまたこの子は折檻されてしまうだろう。

守らなきゃ。僕が弟を守ってやらないと。


「泣くな。泣いても仕方ないだろ。」

自分の感じ取る痛みを抑えながら震える手で、
弟の左手から鳩を奪い、時計のもとあった場所へ帰そうと試みる。

が、できなかった。

もともと鳩の乗っていた台座がパキンとおれていた。むりやり取ったのだ。

「お前、鳩・・・」

弟の顔は見ていられないくらいくしゃくしゃだった。泣いてるけど、怒ってる。そういう顔だった。

僕の体はさらに震えた。弟を直視できなかった。
弟は時計が欲しかったのではない。鳩だけが欲しかった。きっと、鳩自体が欲しいというより、時計のメイン、この時計の心臓の部分が欲しかったんだ・・・。


同じだ。弟はいつも中心をねらう。自分のものにしようとする。僕はその行為に支配を感じ取った。

大人と同じじゃないか。

揺らぐ心があった。

これは僕の感情なのだろう、なぜ自分の感情は分かりにくいのだろう。


治せない時計。分かりすぎる弟の気持ち。守りたいのにどうすることもできない自分。弟の中にある見たくないものを知ってしまったこと。それでも、ぼくは弟を守らなきゃいけない。


(じゃあ、僕はどうすればいいの)




時間だけが流れた。

「なにしてるの!!!」
甲高いヒステリックな声が部屋に響く。

二人とも硬直する。


守らななきゃ。守らなくては・・・・・

何かが動き出すとき、何時も世界は静まり返る。



何かがぶつんときれた。


「俺は知らないよ。だから言ったんだ、お前はわるいやつだ!!!」


暗幕が降りる。



もう何も聞こえない。みえない。闇しかない。


僕はいつだってこうだ。守りたいと誓いながら自分しか守れない。体がいたい。なんでいつもこうなんだ。



そのあと、記憶はない。弟の顔も見れなかった。目をずっと瞑ったままで居られたらいいのに。


僕には居場所がある。現実の世界じゃないけど。目を閉じて眠りに落ちるか落ちないかの狭間にある空間にある。

箱のような部屋に僕はいる。三箇所ドアがある。うち、二つは何時も開け放たれている。

僕の元にたくさんの感情が流れ込んでくる。そしていたずらに通り過ぎていく。
それを黙って見てるしかない。

沢山の人型をした感情たちが入ってきては立ち止まらず、向こう側のドアへ抜けていく。
僕の部屋なのに、だれもノックもしないし、見向きもしない。
僕の部屋なのに、僕は唯一ドアのない角の壁にもたれ座り込んで眺めている。

この感情の人型はまるで幽霊みたいだ。向こうが透けている。そして、どこに向かっているのか?一つの流れがあって、一方通行のように皆移動している。入り口と出口が決まっており、そこを流れていくようだ。

コンコン。

ハッとした。ノックの音だ。
「誰?」
長いことこの空間に慣れ親しんで来たが、ノックされたのは多分記憶では初めてのことだ。
「どうぞ」

すっと扉が開く。
光がさして姿が見えない。女の人のようだが。わからない。
「もう、この部屋からでては?あなた、自由にこの部屋から出入りできるのは知ってるはずだけど。」

しずかな声だった。僕はその声をそのまま受け取った。放った言葉の意味なんて考えなかった。そのままの事だったから。この訪問者とは僕は会話すらできない。瞬時に悟った。そして僕はそこを去った。

訪問者が訪れた側の扉から僕は出てた。

それからその部屋には訪れていない。

時間が存在しない。虚しさのあふれる、真っ白な世界の真っ白な無駄のない造形といえるような世界だった。
音もない。あたりまえだ。通り過ぎる人達には足がないから。

訪問者が来た時に音があることを初めて自覚したくらいだ。


僕の居場所だった。誰も気づかない。誰にも見つからない。

じゃあ、この部屋と僕を全体で見ているのはだれ。


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