哲学の祖と自己探究の関係性
こんにちは。
自分を生きるをはじめる会社「ひとのこと」のオムツ替え係長だいすけです。
自己探究をしていると、
最終的には物質・精神、低次・高次
という具合に2つの切り口に分類できるのでは?と考える今日この頃。
どっちが良い悪いって話しではなくて、切り口という視点です。
その視点で見たら、哲学の祖3人と言われる
ソクラテス・プラトン・アリストテレスが唱えた思想も整理されたと思えて、面白かったって話しです。
本題に入る前に、
ソクラテス?プラトン?アリストテレス?と言う方向けに、分かりやすくまとめてあるブログがあったので掲載します。
ソクラテス、プラトン、アリストテレス【思想の違いをわかりやすく解説】
3人の思想が簡単にまとめてあったので、その部分をブログから抜粋します。詳しく知りたい方は↑を読んでね。
低次から切り込んだアリストテレス
目に見える物質を観察・分析し、その結果を頼りに行動することを低次(=物質中心)な活動とします。
アリストテレスは、本質は目の前にあるやん、観察と研究大好き、
というまとめから、低次な活動となります。
目に見えるものを観察や分析するなどして、真実や本質は何かを見つけ出そうとした彼は、万学の祖と言われています。
そんなアリストテレスは、師匠プラトンのイデア論に対して
「そんなこと考えて何の意味があるんだろう?」
という感想を抱いたそう。
高次から切り込んだプラトン
目には見えないけど確かにそうだと感じる直観やひらめきを頼りに行動することを高次(=精神中心)な活動とします。
プラトンは、本質はこの世にはない、そう、イデア論
というまとめから、高次な活動となります。
・・・イデア論て何だ?
え?っとなった方は、こちらもおススメします。
真!と聞くと唯一絶対、それ以外を寄せ付けないというイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。
人それぞれ違う考え方や感性ですが、その中の1つが真で、それ以外は偽、というような感じでしょうか。
しかし、実際はどの考え方や感性も
プラトンの言うイデア界にある「真」の○○に内包されます。
いやいや、全部が真って、おかしいでしょ?
そしたら何やっても、何感じても、何考えても、全部が真ってことになる。
矛盾があるでしょう!
ごもっともです。
無知の知のソクラテス
その矛盾は、善悪、正誤と2つに仕分けるという低次特有の考え方から起きています。
現代の社会では、科学的根拠は?データは?経済成長は?の様に低次な活動が優先される傾向が強い様に思えます。
低次は、目に見える物質を観察・分析し、それを頼りに行動するという特徴があるため、
○○菌の増殖が抑えられた、昨年よりも売上が10%増えた、という様に
ある一定の条件のもとで事柄を分類することが可能です。
そして、その分類は、良いか悪いかという区別に使用されることが多いです。
例で言えば、○○菌は増殖しない方が良い、売上は増やす方が良い、となるでしょうか。
そうした一定の条件のもとで分類した事柄を土台に区別する低次の活動により、僕たちは物に恵まれた生活という恩恵を受けています。なので、一概に低次の活動が悪いという訳でありません。
けれど低次の活動優先の現代社会では、
目には見える様にならないと、それはないものとして扱われます。
当然、「目には見えないけど確かにそうだと感じる直観やひらめきを頼りに行動する」高次の活動は、ないものにされがちです。
そのないもの(=目には見えないけどそうだと感じるもの)
があると感じていることを自覚すること=
知らないことがあると知る=無知の知と言えると思います。
ないものがあると知った途端、それは「知らないと知っている=あるもの」になるもんね。
無知の知を実践するってどういうことだろう?
低次の活動は生命の維持には役立つし、五感を楽しませて生きるには必要だと思う。
けれど、人は、無自覚に低次の活動に傾倒する余り、「目には見えないけど、そうだと感じる」高次の活動はないものにされてしまう。
「目には見えないけど、そうだと感じる」ことがあるなぁと自覚すること=知らないことがあると知る、
そこから「自分って何でそう感じるのだろう?」と自己探究が始まる。
「目には見えないけど、そうだと感じる」
そのどれも間違っていないとしたら?全てが正しいとしたら?と、
あるものに気付き、あるもの全てを内包したモノの見方・考え方に挑戦する。
ソクラテスも、それを実践していたのかなぁと思い馳せると、今日の自己探究もまた面白く感じられたのでした。
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