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4C読書:「実作俳句入門」を読んで、

 俳句を始めて2年4か月。毎月の句会のために五句を作ることも大変だ。

 考えて考えて、思い浮かばない。
考えるほどに月並みな、これまで自分が繰り返し使ってきた発想と言葉が出てくるだけ。

 教えてください、、、と 図書館に出かけて 「作り方」「入門」「コツ」を書いている本を読む、読む、読む。

何のために俳句を作るのか?

 本を開くと、第1章に「何のために俳句を作るのか?」とある。
俳句を始めた動機について、

1.友人にすすめられて、面白そうだから始めた。
2.カルチャー教室でなにか学ぼうと思って「俳句」講座があった。
3.勤め先の上司にすすめられ、付き合いで仕方なく句会にでるようになった。

 その後はなんとなくダラダラと続けたり、あるいは、作品を褒められて病みつきになったり。 ただ、漫然と作句を続けても、おいそれと上手くいくものではないですよ。「なぜ作る?」を、考えてください。と著者は言います。

自分のために作る

「俳句を作るのは、誰のためでもない、自分のためだ」という自覚を強くもつことが肝要

「自覚」を「強く」もつ。

「誰かに誘われて始めた」としても、「俳句をやって見よう」と思った時から、もはや「自分のために」作り始めたのだ、と著者は言います。

「自分のため」とは、自己表現でしょうか?
 俳句は、日本だけでなく海外でも評価されている文芸。絵や書、詩や小説、などの作品より手軽で、何とかなりそう。俳句は 五七五の十七字。それは誰でも知っていること。
 私などは、五七五で何かを表すことが出来るのなら、しめたもの!  自分の作品を残すことが出来たら嬉しいと思いました。

閑さや岩にしみ入る蝉の声〈芭蕉〉
雀の子そこのけそこのけお馬が通る〈一茶〉
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〈子規〉

これらの句は、みんなが知っている。
なん百年経っても「あれは〈芭蕉〉の句 だ」と覚えてもらえる素晴らしさ。

俳句は、自分がつづる、自分の生の証といっていいでしょう。この過酷な世の中を、自分がどう生きているということの証。そしてまた、そうした自分を見つめ、みずからを慈しむ気持ち、それが俳句の根底にないと、読む人の心をうつ俳句は作れません。

「自分のために」とは「自愛のこころ」と教えられます。

だから「自分の感情を表現する」ことが大切と思います。

「いま、私は何を感じたのか?」

 私は、多くの場合、 目で見たことを「説明」しています。でも、私が見たものを見たままに表現しても、他の人には面白くありませんね。写メする方が良く伝わる。

そもそも、写真を十七字で説明できるものでもない。
それより、いまの私の感動を十七字で表現出来たら素晴らしい。
どうやら、日本語は 五七五の韻文で 感動を表現できるようです。

季語は離して使う

俳句に季語を使うことは、大切なお約束。 感動を 五七五で表現するために、私たちの日本語のこころに宿る情景を「季語」が引き出してくれる。

「柿」
「蝉」
「雀の子」

この季語を聞くと、私の脳裏には 風景や情景を想像できます。
「柿」の季節感、空気感、色、あたりの景色、手の感触、時間帯、などなど。

著者は言います。

「この土手に登るべからず警視庁」これはフレーズであって俳句ではありません。この「警視庁」を季語に替えてみると、

この土手に登るべからず春の雲
この土手に登るべからず卒業歌
この土手に登るべからず啄木忌

どれが良いか? と問われれば、、、
「春の雲」は情景
「卒業歌」は情景+心象
「啄木忌」は心象   を表しています。

俳句は「自分のために作る」のですから、

「ああ、今日は啄木忌だったな」と気づいた作者の想い

作者の内面の部分を表している「啄木忌」を選べば、一句の深みという点からいえば、いっそうよろしい。

「季語」とその他とを「離して使う」ことで深みのある句になります

教えていただきました。

感謝します 

 今日も 本から大切なことを教えてもらいました。ありがとうございます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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