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記録|メッシュワークゼミナール#06

金曜夜、有楽町高架下。
“割烹“と名が付く割に銀座にしては高くない店で酒を飲み、そのまま2軒目へとなだれ込む。有楽町駅からナンパのメッカとして知られるコリドー街に続く高架下では、ひしめき合うお店がここぞとばかりに軒下にテーブルを並べていて、肩をぶつけながら細い路地を歩く。安い酒を交わす人の熱に、人間の生きることの有り様を感じる。酒を交わし、愚痴を言い、喜びを分かち、未来を語り合う。東京のど真ん中で見るそれも、田舎のそれも大して変わらないように思う。

人類学ゼミDAY6

少しだけニ日酔いの土曜の朝。
ここ最近は自分の感覚へ意識を向けるのがままならず、脊髄反射のように淡々と日々を打ち返している。案の定、前回のゼミナールから全く何も着手していない罪悪感に苛まれる。今日は2名の個人プロジェクトテーマについてのディスカッションと、1期生を交えた対話の場。

ゆるし(許し・赦し)について

|私が許せないものは何か
個人的な“こうありたい“からの逸脱。夜のカロリー摂取に、肌にできた吹き出物、レポートを書かずに寝てしまう自分、ながらスマホしちゃう自分…自堕落な自分に一石を投じたい。
社会規範からの逸脱。例えば、不倫だって、犯罪だって、幼児虐待だって、心が痛む自分は出てくるけれど、果てしなく長い歴史にとって必要な人間の営みの過程にすぎないと考えだすと、許せる気がしてしまう自分の見え隠れする残忍さが怖い。他者の何かで自分の正当性を論じると気持ちいい。自分の正当性に“いいね“がつくと気持ちいい。正当性を盾に、自分の弱さを隠しているかのように。

|自由への渇望
『人間は生まれながらにして自由である。何かの制約条件(不自由さ)から脱却した先にあるのが自由ではなく、自由は人が持って生まれた本質。自由の本質を学ぶのが教育である。』
2年前に話したデンマークのジャーナリストニールセン北村朋子さんの言葉が頭をよぎる。

-社会のために。
-家族のために。
-お客様のために。

誰かのために何かを成している自分になることによって、”価値ある自分”に立脚したいという自分のエゴを目の当たりにする。

1期生との対話

|3名の先人たち
ゼミが終わって湧き上がった気持ちは、感謝のような、焚き火を囲んだ時のようなあたたかい気持ちになった。共に学びを分かちあおうとする人たちがここにいる、ということの有り難さ。あなたの本当にわかりたいものは何なのか、あなたの見ている世界は何なのか、と問うて下さることの有り難さ。ひとつひとつの言葉から、人間への、他者への、自分自身への優しい眼差しを感じ、それだけで胸が熱くなる。

|心に残った言葉

・問いを書く
・個別具体的な誰かの生きることについてわかる。それをわかった先に、どういった議論や抽象的なテーマに位置付けて接続できるのか。
・誰目線の“わかりたい“なのか。このゼミの場で脱げなかったら、もう脱げないんじゃないか。
・事象の新規性はアカデミックな文脈でいくと弱い。論じ方での新規性。
・問いが常にアップデートしつづけるのと同様に、展示も変容していく。
・到達した答えではなく、プロセスにおけるうねりをどう捉えるか。
・思考のプロセスをわかっていくこと、表されること、プロセスに宿るということを意識する。

旅の途中で、薪ストーブを囲んで対話をする山小屋での時間のような。それぞれの旅の中間地点で、過去の歴史から続く流れを受け取らせていただいた時間になった。

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