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記録|メッシュワークゼミナール#10 中間報告

2023年12月9日土曜日13時〜17時。
メッシュワークゼミナール中間報告。
9月からはじまった場ももう折り返し地点なのかと唖然とする。中間報告では8人のテーマとキイワードについて発表する日。

自分の思考の癖、視点の癖

私は物事を概念や抽象化して、ぼんやりした輪郭のまま捉えてしまう癖がある。雲にかかった月のように。私にとっての「森」は何かと問われると、それは循環であり、混沌であり、秩序であり、自分自身である。つまり“自分自身とは何か“と問われるような、どうにも掴みどころがなく、言葉では表してしまうと、なんか陳腐な感じがしてしまうのだけど、その琴線をどうにか言葉にしようと試みて、いつも途中でやめてしまう。

学び合う人々

有難いことにこのゼミナールを通じで、それぞれの学びの旅路にご一緒させていただいている。皆さんの発表を聞くたびに、物事の捉え方やアプローチの仕方、私からすると全ての皆さんの優秀さが眩しく、いつも“私は全くできていない“という劣等感に苛まれ、その度に、“誰かと競うものでもなく向き合うのは自分だ“と律するということを繰り返す。ちょうど仕事でも目標設定面談の真っ最中で、同じような問いに向き合っている気もしている。私の人生は自己と向き合う苦しさから抜けられないのだろうか。いっそ手放してしまおうかと思う時もあるけれど、ふと立ち寄った美術館で、なぜか毎週のようにいく焚き火で、東海道線のグリーン車で高らかに両足を前の席に乗し上げている乗客を見ると…自分のテーマ、8人のテーマに揺り戻されてしまう。

中間報告

Mさん|兼業農家(会社に縛られない人)が縛られているもの。縛られても良いもの/嫌なもの


[FB]
・彼らの価値観を知っていきたいのかな。(何に価値を見出して仕事をしているのか、していないのか。Bioと言いながら気にしていないのか。)
・人に向けて活動することと、自分たちの生活
・いろんな方向に向いた忙しさ見るのであれば、農場だけではなく外で活動している側面も見えた方がいい
・価値観は日々の行動、接し方、物の使い方を記録していく、一緒に参加してお話も聞いていくということができたらいい。

Mさん|問い:どのようなモノや体験が芸術的とされ、どのように芸術的な時空間が生きられるのか

対象:鴨江という場所で考えてみる。
キーワード:芸術的なるもの/鑑賞の一回性/場所と施設

[FB]
・鴨江という場所性という話が出てきていて、カラー・思想の違うアートというものが同じ場所にあるという側面が面白い。
・鑑賞者の側の行為性の方にもフォーカスする、ちゃんとみていく。
・両方にできるだけ通う。
・いろんな施設もいろんな人が行き来する。通り過ぎていく人のストーカーをする。
・キーパーソンはいるけど、お客様がこういう場においてはステイクホルダー。なので、追うべきこと、書くべきことはたくさんありそう。
・アートセンターの人も作品に寄与している。作品の作っているところもある。
・人材もブリコラージュ的になんとか回すのかも。
・イベントのお題もブリコラージュ的に決まっている。
・俗人的・場当たり的なものが重なりあって、アートなるものを作っている。アートとして成り立たせている。
・空間的な違いは?
 ∟スタッフの体制が違い。ブンダーカンマーは館長しかいない。アートセンターは館長は管理で、美大の人が手伝っている。
∟構図はアートセンターは展示をちゃんとする。ブンダーカンマーは床に置いていたり。売り物なのかなんなのか。細かくみると何がそうさせているのか。額装に入れるかどうかで、オーソリライズされるかどうかが、受け取り手がどう感じるか。

Nさん|ラインとアドリブ

・ままならない中で日常を生き残るための逸脱
・規範と逸脱がことば的に固くてしっかりきていない。日常よりを対象にしたい。
・今いるところから、自らはみ出してみる。
・アドリブ:生きてきたその人の過程の中で生まれる。

[FB]
・アドリブと即興(インプロ)が混ざっている印象。即興性はよく議論されている領域。アドリブって言っているのが面白い。何もないところから立ち上げるのではなくて、一応あるんだけど、ちょっと外れるアドリブみたいなものが入っていく。そしてまた元に戻る。
・アドリブの面白いところがあるとすると、逸脱は結構強くポジティブもネガティブも含む。アドリブはポジティブな要素に捉えられることが多い。外れることによってうまくいく、外れることがクリエイティブを生み出す。
・アドリブを楽しめない人もいる。音源通りのライブだったという。期待していたもの通りだったことへの喜びと、アドリブが好きない人。
・ルールは書いていないけど守られていないルール(ルールにも色々ある)

私|混沌と秩序


[FB]
一人旅や森での時間の流れが違うのだとすれば。森で流れる時間が何なのか。時間から解放される感覚と、日没までに帰らなきゃという感覚。異なった時間の流れ。コントラストがあったときの、森で起きていることが何なのか。
・森とは何か?

Kさん|交わされるもの

・焚き火は好奇心の的でありながら、意識やcareを向ける対象になっている。
・時間や空間を共にしている(公的なものと私的なものが混在している)
・二重性
・人々は何かをしている。何かしらが交わされているのだろう。
・ドラスティックな場じゃないからこそ、目を向ければ見えてくるものって何だろう。

[FB]
・連帯感を作っているものは何なのか
・火が小さくなっていって去る。その場を共にした人と一体的になった。
・何が共有されていることになるのか
・個で過ごす体験と、誰かと過ごす体験が共存する場

Kさん|人はどこを向いて、学び、育つのかー社会と私を結ぶ日常における教育ー


[FB]
・実際にフィールドワークを通して分かりうることは何なんだろう。育つや成長を扱うと時間軸が長い。できなくはないが難しい。
・教育でもその場所で何が起きているかということをみていく。
・大人をわかるためにも子供とのコントラストをどうしていくか。
・教育の最小単位としての指差し
 ∟良し悪し。違和感。そこに象徴されているものの根深さ。
 ∟社会化されていくことへの興味。
・他者としての子供。子供と接するもので内省的に自分が見えてくる。
・親子関係だと指差しを観察する。大人の人に話を聞く。

Bさん|「ワガママ」と出会う旅ーお節介の先にあるものー

・当事者だから語れないこと。
・ワガママはおせっかい

[FB]
・参加してみてること自体面白い。今の社会をわかるアプローチになっている。いろんなデモに参加している人っているのかな。一見するとオーソドックスなスタイルにあり。多様性がある。当事者もはっきりとしたバウンダリーがあるわけではない。多様性が浮かび上がると面白い。一つ主義思想がある人が形にしているのが分かりやすいが、抜けていく人、ファッション的に参加する人。そこがもう少し見えてくるといいかな。
・そこの人たちの言葉使いなどをみる。
・活動家や思想家の人があつまるお店があるのでは。(Zoomやイベントへの参加)

Kさん|御徒町のジャイナ教レストランを巡るコミュニティ

[FB]
・話を聞かないとわからない。店員さんどういうところから野菜や材料の仕入れ先とどう繋がっているのか。
・レストランの店員と客の関係性からぐっと踏み入れる。
・ホームレス支援は宗教実践なのではないか。
・関係性における宗教性ってあるのかな。
・友達の定義が気になる(友達というものがどいうグラデーションを持ったもので、内と外を区切る人)
・差し入れしてみるとちがった関係性が見えてきそう。

森なるもの

初めて森に入ったのは、2020年3月20日西鎌倉の森。きっとそれまでに森にも林にも入ったことはあったのだろうけれど、“森“というものと出会った時はその時がはじめてだった。「森ではひとりで過ごしてみるといいよ」と言われ、ひとりで過ごした数時間。そのときの森は幾重にも重なる緑色のグラデーションの葉っぱの間から、春の光がきらきら差し込んでいた。2回目に入った森は、2020年7月山中湖の森。梅雨の雨がしとしとと降っている日。先に森に到着している数名と合流したとき、“都会を背負ってきている私がいる“と思ったくらい、森に馴染んでゆっくりと深い呼吸をしているその人たちとの間にある何か薄い時空の歪みのようなものを感じた。森の奥へ奥へ歩き、来た道を戻れば大丈夫と振り返ると、違う景色が広がっている。道なき道を進む怖さがありながら、深い森に吸い込まれるように、さらに奥へ奥へ進み、誘われるように大きな木の陰に座る。乳白色の霧があたり一面広がり、繭に包まれているような感覚に襲われる。ぽつぽつとエマージェンシーシートを打つ雨の音。冷たい雨の中でだんだん体温が奪われていく。水分を含んだ土の香ばしい匂い、青々と木の表皮を覆う苔、顔を伝う雨水。私自身が土に還っていくような時間。うとうととまどろみ、寒さで我に帰り、その繰り返しが何度か過ぎた後、集合の笛の音が微かに聞こえてくる。

森では生命の循環の全て、感情の全てが、混沌の中で織りなされている。雨が樹々に降り注ぎ、幹を伝って土へ吸い込まれていく。朽ち果てた木から新しい命が芽吹き、ザトウムシと言われる蜘蛛のような虫がゆっくりと幹を歩き、蟻や小さな虫たちが葉の裏側を這う。その日の夜、テントの中で眠ろうとすると、何よりも近づいてくる人間の足音が一番怖いと感じ、焚き火の炎のあたたかさで冷えていた自分の体を知る。思考を止めようとしても全く止まらず、水中の泡のように浮かんでは消え浮かんでは消えていく。全体であり一部、一部であり全体であるということを、森は私に教えてくれる。何かを“する“ことによって価値が決められる社会において、そこに存在していることがすでに価値あることであるということ、あなたはただそこにいるだけでいいのだということを、大いなる自然は教えてくれているのである。


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