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記録|メッシュワークゼミナール#04 静岡

静岡は、多分はじめての地だった。

踊る心と相反するように、『私は何をわかりたいのか』という答えの出ない問い。
アマチュアフィールドワーカー8人の、熱、騒音、静岡で暮らす中国人、椅子、余白(遊び)、それぞれが調査するフィールドは遠いようで、近い。
静岡では“時間“をテーマにフィールドワークを行った。
決まった正解に向けて結論を導き出すためのリサーチではなく、プロセスを通じていかようにもゴールは変容する。1日後にどんな世界が待ち受けているのか。そこに集う私たちは、隣のとんかつやで腹越しらえをした後、まだ見ぬ未知の世界へと身を投じていく。

腹ごしらえを終え…

何をどう観察したらいいのか。

今回の旅では観光情報を知りたいわけでもなく、わかりやすい“静岡らしさ“を見たいわけでもない。モノやコトとの関わりを通じて人間を深く洞察する筋力と、それに呼応するように、自分自身の移ろいゆく感受性を手に取り、無自覚に固定化された認知が覆される連続を味わうことを通じ、自分とは何かを少しずつ掴みたいという欲求が顔を出す。

DAY1|チェーン店、“マクドナルド“にて、全体を見渡す

"時間"というものを何で切り取るのか。地方にあるチェーン店、いわゆる統一されたブランドを持ち展開される店舗には、どんな人間が集まり、どのように行動し、またつくりだされる空気にどう影響しているのかを知りたくて“マクドナルド“に行った。静岡でなくても、そこは日本中どこにいても行ける場所。

会議室から徒歩10分、若者たちが行きかう繁華街の地下1階

土曜日の16時前後にマクドナルドに立ち寄る人たちは、東京で見るそれも、静岡で見るそれも一見変わらない。客は飲み物と食べ物をモバイルオーダーし、商品を受け取り、着座して30分〜1時間程度で席を立つ。17時頃になると一気に家族連れが少なくなり、1時間前とは違った客層が入店する。店員も忙しなく小走りにホールを動いている。そんな走らないくてもいいよと思うが、きっとホールは忙しいのだろうか。「いらっしゃいませ!」のような元気いっぱいの言葉もなく、淡々と“接客“という仕事(作業)がこなされていく。日本全国にあるチェーン店というものが、“全国どこでも同じサービスを提供する“という謳い文句の中、均質化されたファーストフードと接客が提供される。均質化の箱に入れられた客は、“チェーン店“というシステムにとり込まれ、全国どこにいても同様の体験を享受する。
照明はあたたかな色合い、BGMも隣の会話が耳に入るくらいの音量、席の間隔も空いているにも関わらず、計算された余白がそこにはある。

地下へ誘うMのマーク🍟

DAY2|街を歩く、個人へのフォーカス、ローカル

計算されていない余白・無駄・歪みがローカル感というものにつながるのだろうか。“っぽさ“を求めて歩き、“っぽさ“が見つからないと、焦りや落胆の感情が芽生える自分に気づく。

会議室から徒歩8分、地下街の静岡茶

12時23分、静岡駅の地下街にある静岡茶商工共同組合からこの日ははじめた。観光客のために作られたかのような店内は、お茶の物販売り場と静岡茶が楽しめる喫茶店とが併設されている。お茶と和菓子がいただける一茶セットを注文するとカウンターの女性が手際よくお茶を淹れてくれる。“客と従業員“。透明なアクリル板で仕切られているかのように、その関係性から抜け出せない境界線がそこには、ある。

会議室から徒歩20分、ちょっと離れた純喫茶

喫茶店を出て目的地は“ヒトヤ堂“へ。
デスクリサーチ時に調べていた純喫茶+ゲストハウス、という地元に根付いていそうな響きのお店へ向かう。お店の扉を開けようとすると、店内にいたタートルネックの薄手のセーターを着たアルバイトらしき黒髪ボブカットの女性が扉を開けてくれる。1週間前の酷暑が嘘のように、肌寒く感じるのは東京も静岡も同じだ。入り口の扉を開けると「カランカラン」と音が鳴る。マクドナルドが自動扉だったことを思い出す。BGMはオルゴールのような音楽がかすかに聴こえる暗い。満席になっても15人くらいしか座れない店内。客の声が大きく店内に響くが、それもまた心地良い。

時間との戦い

時折、喫茶店の入り口からゲストハウスに宿泊しているであろう客が入ってくる。カウンター6席は1席ずつ空けて、客が座っている。隣の女性が店主らしき女性と仕事の話。会話に入れない私のもどかしさ。ピザトーストとサイフォンコーヒーを注文。コポコポと湧き上がるお湯の音と、理科の実験を思い出すような見た目、フラスコに少しずつ溜まっていくサイフォンコーヒー。周りの人の声がどこか遠くに薄らいでいきながら、コポコポのリズムに合わせて、透明な空気と一緒に時間だけが流れていく。

壁に掛けられた鳩時計が14時の知らせを届けてくれる。みんなとの待ち合わせは15時半。オフィスまで戻るのに徒歩25分。このまま会話なく店を後にしてもいいものかと思うが、チャンスが掴めないまま時間だけが過ぎていく。

会話の糸口を掴めないまま、痺れを切らしレジへ向かう私。途中でシフトを交代したのか、別のアルバイトらしき女性が計算してくれる。棚にならんだキーホルダーと飴玉を手に取り購入したタイミングで、会話。してみるものの会釈で終わる。あゝ、撃沈。

私の座っていた席の、右側のフライヤーが置いてあった棚に目をやると、2匹の猫があしらわれた木製のカレンダーがある。ちゃんと今日10月8日の日付。“今日“という時間がここには流れている。

毎日“今日“がくる

会議室から徒歩3分、直前の駅の一角

純喫茶を後にし、足早に向かう。
話しかけるべきか通り過ぎるべきか、小雨の寒々とした私の心と同じく、足早に“通り過ぎる“を選択する私。「誰かと話したい」という一心で、商店街の蒲鉾屋さんに立ち寄ってもお店の人は誰も出てこず、スタンドコーヒー屋さんでラテお買うも話せる雰囲気にならず足早に去る。

ちょうど、集合場所の会議室まであと5分くらい、静岡駅の片隅で野菜を売っているカウンターをスマホで撮影している50代くらいの女性に遭遇する。通り過ぎようと思ったけれど最後のチャンスと声をかけてみる。どうやら、“オクシズ“というエリアから地域で採れた野菜と、自宅で採れたハウス栽培のパパイヤを月に2回売りにきているようだ。元々その土地でビニールハウス栽培をされていいた人から譲り受け、ご夫婦で営んでおられる。元々エンジニアだった旦那様と奥様が、8年前にオクシズに移住をされたようだ。奥からごそごと何か取り出してこられると思ったら、それは以前テレビで紹介された時の写真だった。ハウスに遊びにおいでという言葉とともに、青と黄色のパパイヤを1個ずつ買い、会議室に向かう。

“っぽさ“の罠

“っぽさ“に出会ったときに、求めていた正解に辿り着いたような感覚に陥る。目の前で繰り広げられる現象に、特異な意味を見つけ出そうとする意識が働いてしまう。

真っ白な気持ちで人と相対したとき、そこに存在している“人間“としての共通な営みを感じずにはいられない。

“静岡で流れる時間とは“という問いを持ったことにより、“静岡特有であるだろう時間“というよくわからない魔力に引っかかり、解釈をしたがる私。特に2日目に顕著に、数時間のフィールドワークの中で“何かを掴まなければならない“という意識が働き、意図して目の前で起こることを解釈しようとする自分が出現した。ただ目の前で起こるあたり前の営みを、起こるままに捉えること。

終わりに

時間に追われるという感覚の中で、毎日を過ごしている。
30分毎にスケジュールされた予定表。少しできた余白の時間も“見えない家事“のように、“する“という行為が押し寄せる。「今、何を感じているのか」を置き去りにする私。感じるということすら忘れてしまいがちな私。場に“期待“して入ってしまう自分や、何かを掴もうとしている(ゴールに向けて情報収集を選別している)自分が出てきてしまい、身体に力が入っていて、場に委ねられていない。

数値によって“時間“というものが規定され、数値が“今“を生み出し続けている。
システムに組み込まれ、均質化される日々の営みのように、ある種均質化された私自身も時間の中に埋没する。システム化された時間に埋没することによって、“社会の中で機能しているという自分“という存在の価値を、私は表そうとしているのかもしれない。

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