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『NOPE』を観て思った、撮影をめぐるあれこれ


8月末に『NOPE』を観てから、映画と撮影することについて、結構長く考えてしまっています。

8月のいろいろに、こんなことを書きました。

映画を観終わった後、考えてしまったのは、〈撮影する行為って本質的にグロい行いなのでは〉ということ。だから演奏中に撮られるのは演奏活動を始めてから徐々に徐々に嫌いになっていったし、ライブ後の集合写真もあまり好きではないのかもなあと、自分が普段感じていることを照らし合わせて考えてしまいました。

映画『NOPE』は、私の周りでは、普段から沢山映画を観ている人の反応は凄い、良かった、というかなり絶賛の反応なのですが、そうでない人はわからなかった、つまらなかった、あれって何なの、という反応に、バキっと分かれています。

私がとても良いと思う部分は、肌触りや質感が残るけど、説明されない余白もかなり沢山あって、何でもかんでも伏線回収できるものが良いものだと思ったら大間違いだぞと、ジョーダン・ピールが言っているように感じました。靴のくだりとかね。

そして、撮影をめぐる話なので、映画を物語やエンターテイメントとして観て楽しむところから突っ込んで、撮影という目線で映画のことを考えたことある=物語の制作裏側を想像することができるかどうかで、受け取りも随分変わってくるかもしれません。

私は、昔から映画は好きでしたが、映画ファンとまでは言えない程度の、超ビッグバジェットの話題作だけ観にいく程度でした。
それが、能動的な映画ファンに変わったのは、2015年『マッドマックス怒りのデスロード』がきっかけです。これも一応観ておくかなぐらいの軽い気持ちで近所の映画館に行ったら、ちょっとわけがわからないぐらい感動した。言葉で全く説明できなくて、魂が震えたのです。
ただ、これを共有できる人がなかなかいなくて、一部ラジオで盛り上がっていたのでそれから映画評論をのめりこんで聞くようになって、余計映画が面白くなって、紹介された映画を観に行って、配信で見て、というサイクルができたんですね。

それなりに沢山観るようになって思ったのは、数を観ていたら見方がわかってくるというか、リファレンスが多ければ多いほど映画は楽しいということです。音楽も一緒なんですが、自分のライブラリが増えるにしたがって、楽しめるものが増えてくる。映画評論は撮影手法の歴史的繋がりも伝えてくれるので、撮影という観点で映画を観るのは映画評論なしには無理でした。たぶん、まだ全然ちゃんと観れてないけど。


さて、『NOPE』に戻ります。

観終わった後、撮影という行為について、半月ほどずっと頭を離れません。

私は職業柄、わりと撮影される側にいることが多いです。
演奏中の撮影は、他のお客さんや演奏者の邪魔になることが多々あり、全面的にお断りしています。
ですが、誰かの迷惑になる以前に、私にとって不快に感じる行為でして、デリケート過ぎかなあと思うのですが、人が真剣に何かをやっているところを勝手に切り取られる、そしてSNSにアップして見せ物にされることに、若干の抵抗感があるのです。
それを喜ぶミュージシャンもわりといますし(宣伝にもなりますから)、一概に駄目と言うつもりは毛頭なく、人それぞれのルールでやればいいと思います。
私が神経質すぎかしらとも思うのですが、そもそも集合写真も普段自分から撮ろうと言わないし、どこかに行っても自撮りはほぼしない。するとしても顔が一部のみで欠けまくって撮っていることが多く、その場にいたことの証明程度に映り込んでいる写真の方が多いかな、と、今回『NOPE』を観て考えて気付きました。自分が写ることがあまり好きじゃないみたいです。
たまにSNSにライブの集合写真をシェアすることもありますが、99%がリスナーから頂いた写真なんです、自分から撮ろうって、ほとんど言わない。


そういう私が『NOPE』を観て、なによりジュープの存在が「わかる」って思って共感したんですよ。

一度しか観ていませんが、登場人物は、こんな感じだったと思います。

OJ: 撮影に興味なし、父親から受け継いだ映画撮影のための馬を貸す業務にそれほど能動的でもない

エメラルド: 最初はお金のために撮影がしたい、映画撮影において黒人が無視されてきたことに自覚的

エンジェル: 何が映るかに興味がある、最新の撮影ガジェットに明るい

ホルスト: 撮影に取り憑かれた人、捕食者目線

ジュープ: 撮影には興味なし、昔撮影されていた

TMZ記者: 他人の撮影に乱入して撮影する人

ゴーディ: 撮影され続けてきて、抵抗したら射殺された


撮影に能動的に関わっていなかったのは、OJと、ジュープと、ゴーディだと思ったんですよ。

なかでもジュープは、以前は撮影される側だったけれど、あれを呼ぼうとした行為は、ただ昔の奇跡を信じて奇跡を願って、あれが現れる機会を作っただけ、撮影したいわけではなかったのです。ただ、自分の人生を肯定したいというか、証明したかっただけなのだと思いました。
ジュープ自体もアジア人としてあのシットコムで見せ物にされており、チンパンジーが暴走した時も、搾取された者同士意思が通じて助かったわけではなく、ただ目線が合わなかったから生き延びただけで、偶然ではあるけれど奇跡ではない。
しかし、今度は自分が興業側に立ち、見せ物を作ろうとする。いじめられた者がより弱者をいじめるような連鎖構図を、あれがひっくり返す。皮肉だし、彼の人生は、アジア人として生まれ、放り込まれた所があそこだったことから狂ってしまったのだろうなと、ジュープに思いを馳せてしまいました。

〈撮影する行為って本質的にグロい行いなのでは〉という、観てすぐの私の感想ですが、ジュープは撮影する行為には関わっておらず、撮影される側としてその中で起きたトラウマから立ち直れていない存在として描かれていました。

あと、グロさを感じたのはTMZ記者ですね。
あのミラー状のヘルメットで、一方的に見て撮影している様は、本当に醜悪さを感じました。そう感じるように、あの時間に、あの見た目で配置しているんだろうなと。

逆に、ホルストは気持ちの良い撮影バカで、憎めません。
興味を持ったら採算度外視でも撮る仕事をしたい。撮ることと責任については非常に自覚しており、それでも撮影のためにバカをやっちゃって身を滅ぼす。プロとして正しい在り方だと思います。

結果的に、撮影そのものに関わりも興味もなかったOJが、最後にあの姿で映し出される。あの瞬間の見事さと言ったらもう。しかも、ぼやけてるところに、映画で全部説明しない、全部伏線回収してたまるか精神を感じて、完璧だと思いました。

私は職業柄、ポートレート撮影、テレビの収録など、プロが関わる撮影は定期的に行ってきていますが、商用利用として目的がある時は全く気にならないです。お店が後々のライブの宣伝のために撮る写真も然り。

想定しない他者から撮影される時、また、撮影者がミュージシャンは撮影されて当たり前と思っていることがダダ漏れな時に、嫌だなあと思うのですが、『NOPE』を観て、その自分が思う撮影の嫌さについて、また、自分が少し過剰に嫌に思っていることの嫌さについて、この2週間ほどずっと考えさせられています。

そういう個人的な事情も含め、今のところ、今年一番の映画体験になりました。観てない方にもお勧めです。



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