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忘れない〜あの日の私〜


当時のことを回想しています。
読む方の苦手な表現をしているかもしれませんので、お気を付けください。


今日で、東日本大震災から13年となりました。
この日が近づくと、今でも胸がざわめきます。

その当時、地元岩手の小学校で、教員をしていた私。
卒業式の準備をしてくれていた5年生を昇降口で見送って、職員室の席に座ったタイミングで、大きな揺れを感じました。
ストーブの灯油が溢れ返り、棚という棚から物が落ちてきました。

他の先生方と、揺れが落ち着いてから外に出て、校庭にいた子どもたちを、校庭の中央に集めたことを覚えています。
下校途中で地震に遭い、泣きながら戻ってくる子どもたちもいました。

校庭に集まった子どもたちが、落ち着いてきてから、校舎内に残っている子どもが居ないか確認に戻りました。
幸い、残っている子どもはいませんでしたが、地震後のこの行動が正しかったのかは疑問です。

大人も落ち着き始めてから、電気・ガス・水道というあらゆるライフラインが途絶えていることに気付きました。
なんとか情報を得られないか?
と、私はガラケーのワンゼグを見てみることにしました。


そこで、沿岸部に津波の被害が出ていることを知ったのです。


当時の私は、教員をしながら、女子サッカーチームにも在籍し、歳下の仲間たちと楽しくプレーしていました。

そこで仲良くなった7つ歳下の女子高生がいました。
サッカーも上手で、頭もよく、人柄も素敵で、人懐っこい彼女を、本当の妹かのように可愛がっていました。
私が膝を手術したときは、「復帰したら、また一緒にサッカーしようね!」と約束もしました。


ワンゼグで津波のことを知ったとき、沿岸部に住む彼女のことが、すぐに頭を過ぎりました。

目の前にいる子どもたちを他所に、咄嗟に彼女に電話をした私。
本当に咄嗟でした。
教員の行動としては、間違ってますね、きっと。
けど、居ても立っても居られなかったのです。


何度も何度もかけましたが、繋がりませんでした。

電波が悪くなってるのかもしれない、彼女の家は高台だから、きっと大丈夫だ。

そう思って、目の前の子どもたちのところに戻りました。


子どもたちは、迎えにきた保護者に引き渡し、保護者が来られない子たちは送り届け、私たち教員もひとまず帰宅することになりました。


帰宅し、家族4人で祖母宅に避難しました。
兼業農家で、野菜や米はあるし、かまどもあるし、発電機もあるし、井戸水もあるし、ライフライン戻るまでは何とかなるだろうと、親戚一同20人で身を寄せ合って過ごしました。


祖母宅に避難した翌日、チームのコーチから連絡がありました。

心配していた沿岸住まいの彼女が、津波に飲まれ、行方不明だと。

勉強のために行っていた海に近い図書館で被災し、慌てて迎えに来たお母さんと逃げこんだ避難所が、津波に飲まれたのだと。
お母さんは幸い、何かに捕まって流されずに済んだけど、彼女は流されてしまったのだと‥


言葉が出ませんでした。
いやいや、ウソだ。
きっとどこかの避難所にいるはずだ。

そう思わないと、平常心を保てなくなっていました。

私の様子がおかしいことに気付いた従兄弟が、「今は自分たちの心配しないと!」と言ってきたのですが、その言葉がそのときの自分には刺さってしまい、「なんでよ!?💦」と、噛み付いて、口喧嘩になってしまうほどに。


その日から、自分のことより彼女のこと、親戚のことより彼女のことが気なってしまい、トゲトゲしてしまう自分がいたので、一人で自宅に戻り、親戚から距離を置きました。


震災発生から3日後の3月14日。

彼女の遺体が見つかったと、自宅に一人でいた私のもとに連絡が入りました。

一人でいてよかった、と後に思うほど、取り乱しました。
しかし、なぜか涙は出ず。
あまりにショックが大きくて、この日からしばらく、感情が無になってしまっていたように思います。

数日後に、火葬と葬儀があるから、チームのメンバーで車に乗り合って、行ける人は行こう、ということになりました。
ガソリンの手配が難しい中でしたが、この目で確かめない限り、彼女が亡くなったということを認められないと思い、行くことにしました。


沿岸部へ向かう当日、車へチームメンバーを乗せ、ハンドルを握りました。

彼女のもとへ向かう道中、その地へ近づくほどに、この世のものとは思えない光景が広がっていきました。
それなのに、なんだか現実味がなく、ただただ横目に見流していた私。
無感情のまま来てしまったのだろうと思いますが、本当に何も感じないでしまいました。


火葬場に着き、薄暗い中に置かれた棺の中の彼女に顔を合わせました。
薄暗さもあって、なんだか微笑んでいるように見えた彼女。
苦しまなかったのかな?
なんて思いましたが、それでもまだ現実味がなく‥

その当時は、火葬場もライフラインが途絶えていたので、発電機で火葬炉を動かしていたのですが、彼女の番になるってときに、発電機が動かなくなってしまい、この日は一旦、自宅に戻ることになったのです。

幸いご自宅は高台だったこともあり、津波の被害はなく、ライフラインも繋がっていました。

明るさがある居間に安置され、お母さんから「顔見てやって」と言われ、メンバーに続いて、彼女と顔を合わせた私。

火葬場での印象とは打って変わって、苦悶の表情をしている彼女がいました。

やはり苦しかったんだな‥
と、思いつつも、この期に及んで、なんだか受け止められずにいた私。

顔を合わせたあとで、お母さんから
「ひとみちゃんのこと、本当のお姉さんみたいだって言ってたんです‥」
と、生前に彼女の口から語られた思いを聞いた瞬間、押し殺していた感情が爆発して、嗚咽とともに泣き崩れてしまったらしい私。

「らしい」というのは、記憶がそこでぷっつりと途切れてしまっているからです。

気付くと、地元に戻っていて、どうやって帰ってきたのかすら覚えていませんでした。

自分の車は、一緒に行ったメンバーが運転してくれていたそう。


記憶が飛ぶほどの出来事は、それまでも、今までも、これが初めてでした。


そんな日から早13年。

一緒にサッカーをする約束は果たせなくなってしまいましたし、私はその後、サッカーも引退してしまいました。
趣味も変わり、その当時は目もくれなかった宝塚歌劇にハマりました。
だからとて、彼女のことを忘れることはありません。

いつも、心のどこかで声をかけられているように感じるのです。

これは、あの日の出来事に後ろ髪を引かれているのではなく、私が私らしく生きるために必要なことなのだろうと感じています。

これから先も、彼女との記憶とともに‥


長くなってしまいましたが、やっと、泣かずに回想できるようになりました。

今年も、近所の菜の花の名所で写真を撮りました。



彼女に届け🎵


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