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マーク・ロスコについて

 展示されているアート作品を見た時に、なぜか深い感動を覚えたり、なんかよくわからないけどすごいな、オーラ出てるな、と感じる事がある。そう思わせる作品の背後には、往々にして、それを制作した作家の壮絶な人生だったり、深い理念が隠されている。きっとそういったものは、自然と作品から滲み出てしまうものなんだろう。 

 私が美術の予備校で学んでいたときに、多浪していた女の子達のある会話を耳に挟んだ。「(予備校に)何年もいるとさ、(芸大に)受かる人ってなんかわかるんだよね。入試直前になると、その人の絵が他の人より大きく見えるというか、なんか光っているんだよね」「それ、私も、わかる気がするわ」彼女達の話がどこまで本当かわからないけれど、そういうことを見抜く能力って、絵画・アートの世界で長く生きている人には常識のように備わっている気がする。

 マーク・ロスコの絵も、そのひとつ。千葉県にある川村記念美術館には、マークロスコの絵だけを展示した部屋がある。その空間はなんとも言えない荘厳な空気が立ち込めている。(何人かの知人に聞いてみたところ、その空気の変化は聞いた人たちみんなが感じるもののようだ。)

 マーク・ロスコ[1903〜1970年]は2色や3色だけの四角い色面で構成された巨大な抽象絵画を描いたアーティストとして有名である。哲学に深い関心を持っていた彼は、若い時にニーチェの著書「悲劇の誕生」に大きな影響を受けてその絵画群を制作した。今回はそのマーク・ロスコの人生をネット上の情報を元にここに要約する。

 ロスコの生まれは当時ロシア帝国領であったラトビアであった。家族は両親と姉の4人で、父は薬剤師をしており、本をよく読む家庭であったそう。家族はロスコの幼少期にユダヤ教に改宗し、彼は幼い頃、ユダヤの子どもたちのための教室へ通い「タルムード」と呼ばれるユダヤ教の聖書について学んだ。その当時のラトビアでは「ポグロム」と呼ばれる反ユダヤ運動が始まり、計画的な集団的迫害行為が各地で起きるようになった。ポグロムと息子のロシア帝国徴兵を恐れたロスコの父親ヤコブは、家族でアメリカに移住する事を決める。

 勉強熱心だったロスコは、アメリカで奨学金を得てイェール大学に進み、心理学を学び始める。しかしそこでロスコは、学生の多くがエリート主義で差別主義者であることを知る。反抗心旺盛だった彼は友人と共に、学校の古風なしきたりやブルジョア趣味を風刺する風刺雑誌『イェール・サタデー・イブニング・ペスト』を発行する活動を始める。翌年、奨学金の更新ができずに、彼は大学を中退する。

 その後のロスコはニューヨークに移動し、パーソンズ美大に入学。グラフィック・デザインを専攻する。そこではアーシル・ゴーキーや、キュビズム作家のマックス・ウェーバーから直接指導を受けている。またニューヨークの美術館では、パウル・クレー、シュールレアリスム、ジョルジュ・ルオーの絵画などを目の当たりにし、ロスコは美術を宗教的・感情的な表現の道具として見るようになった。

 1939年、35歳の時に第二次世界大戦が始まった。ロスコはヨーロッパで台頭してきたナチスの影響から、アメリカも国内のユダヤ人を突然の国外追放するかもしれないという恐怖にかられてアメリカの国籍を取得。また自身の名前を「マーカス・ロスコビッチ」から「マーク・ロスコ」に短縮した。(「ロス」はユダヤ系の意味を持つので「ロスコ」とした。)1940年頃のロスコは絵を描くことを止めており、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』とフロイトの『夢判断』の本に没頭していた。特定の歴史や文化を越えた、人間の意識に働きかけるような神話的シンボルを見つけ出す事に関心があったようだ。また、哲学的な影響はフリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』から受けており、ロスコは ”この空虚は現代に神話が不足していることが起因している” と考え、”現代人の精神的な空虚を和らげる”という目標を掲げて制作を再開。あの有名な抽象絵画の制作を始める。

 彼は展示室の壁に自分の作品だけを展示し、他人の絵を並べてほしくないと望んだ。1970年に病気(大動脈瘤)や私生活上のトラブルなどの理由で自殺。66歳であった。

 マーク・ロスコについて更に詳しく知りたい人は、「芸術家のリアリティ」という本がある。この本は、ロスコが絵から離れていた1940年代に書いた本人による芸術論で、息子のクリストファー・ロスコ氏が編集し2006年に刊行(原著)されたもの。(私もまだ未読のため、読み次第その内容もここに追加、更新予定。)

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