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侯孝賢『ミレニアム・マンボ』私観

(※ネタバレというわけでもありませんが、まっさらな気持ちでこれから鑑賞したいという人は、鑑賞後に読んでください)

 好きな映画監督といったらエドワード・ヤン(楊德昌)が真っ先に挙がるわたしなので、『台北ストーリー』('85)に俳優として出ていた侯孝賢(ホウ・シャオシェン)のことは見ていたし、侯孝賢が台湾ニューシネマを、というか台湾を代表する世界的監督であることは重々承知していた。それなのに、エドワード・ヤンや蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)は見ていたのに侯孝賢は見ないままになっていた。理由は特になくてただなんとなく機会を逸していただけなのだが、年末台北に行ってより一層台湾を知りたいと気持ちが募って、あれこれ本を読んだりドキュメンタリーを見たりしてきているなかで、遅ればせながらも侯孝賢も当然見て然るべきとの思いを強くしていった。

侯孝賢プロデュースの映画をテーマとしたサロン
〈光點台北〉
侯孝賢や脚本を手掛けてきた朱天文ら御用達の
〈明星珈琲館〉

 これだけ配信が充実している昨今でも、見たい映画を見たいときに見られるというわけでもない、と思う。自分のリサーチ不足かもしれないけれど。配信されているわけでもなければDVDも販売していなかったり、されていてもわりと高額だったり。レンタル店も今や続々と姿を消していて、わたしの住む町もまた例外ではない。そこでこぼれ落ちる作品が存在してしまうのは悲しいことだ。

 侯孝賢に関しては幸い近くの図書館にいくつかはあったので少しずつ借りて見始めているところだったが、たまたま劇場情報を調べていたところ、「ミレニアム・マンボ」('01)が上映されることを知った。これを逃せばなかなか次の機会に恵まれることはないだろうと思い、すぐにチケットを取って新宿武蔵野館へ向かった。

新宿武蔵野館

Story
新世紀を迎えたばかりの2001年の台北。恋人のハオと一緒に暮らしているヴィッキーは、仕事もせずに毎夜、酒とゲーム、クラブ通いと荒れた生活を続けるハオにうんざりしていた。仕方なく始めたホステスのバイトで出会ったガオのもとへ逃げこんだヴィッキーだったが、ガオがもめ事に巻き込まれ、日本へ旅立ってしまう...。

『ミレニアム・マンボ』公式サイトより

 ミレニアムのころ、わたしも主人公たちと同年代の若者だったから、ある種のノスタルジーやシンパシーが得られるのかもしれない、などと軽く考えていた。が、そうしたものを得られたとしたならば、冒頭で、随所で鳴っていたあの時代らしい(わたしはスーパーカーを思い出した)アンビエントな音楽だけだった。自分にとってのあの頃はもう少し健全で凡庸だったから。

 見ているあいだずっと静かに翻弄されていて、ラストシーンをそれがラストシーンだとも知らずにぽかんと眺めていたらエンドロールが流れ出して、「あっ、終わってしまった!」と、狐につままれたようになった。久しぶりに困った。こんな困った後味は初めてかもしれなかった。帰りの電車の中で公式サイトのコメンタリーを読んだりして少し考えてみたけれど、やっぱり困ったままだったから、一旦考えるのをやめた。

 作品の舞台も公開も2001年だが、ヒロインの10年後の回想のナレーションが随所にあって、10年前の出来事として映画は進む。進む、と言ったが時系列はまったく一直線ではない。飛んで、戻って、途切れて、繋がる、あるいは繋がらない。そのうえ舞台も台北、夕張、東京とあるから、シャッフルされたルービックキューブのようなのだ。心理的には3次元に混乱しているかんじ。

 シャッフルされたルービックキューブが目の前にあると、とりあえず正しい位置に戻す試みをしたくなる。見ながら、事実わたしはそうしていた。「これはあそこの続きか? きっとそうだ」と。しかしそんなことはナンセンスなことだと、薄々感じてきてもいた。すると今度はそのナンセンスたる理由を悶々と探し始めていた。格好よく、時に可愛らしく、圧倒的に魅力的ではあるけれど退廃しきったヴィッキー(スー・チー)の2001年の日々を3次元に見せられながら悶々とし続け、エンドロールが流れ始めた瞬間にワッと泡を食った。

劇場でもらったポストカード。
圧倒的に魅力的なヴィッキー。

 帰りの電車で考えるのをやめた後、本当に少しも考えることなくその日の残りを過ごしたが、ベッドに入ってから急に様々に思いがせり上がってきた。

 10年前のあれこれを回想するのに、完璧に時系列に沿ったりはしない、というか出来ない。

 1日の終わりの、眠りに着く前の取り留めのなさのように、断片的であったり、行きつ戻りつして、途中でうんざりしたり面倒くさくなってやめたり、不意に別のことを、別の景色を思ったり。そうなると雪の夕張は退廃の日々を振り返る10年後のヴィッキーにとっての、真っ白な救済のようにも思えてくる。ラストシーンだとも思わずぽかんと見ていたラストシーンも、語り尽くせぬ記憶の着地点としてヴィッキーが選んだのだと考えると胸に迫るものがある。

 詳細な日記でも書かない限り、記憶の中で時系列は曖昧にぼやける。大切にしたい思い出ならば、そのことを残念に思ったりもする。しかし、Aという出来事があって、そのあとBという出来事が起こったという前後関係、あるいは連関は、重要な場合もあるけれども、本当に重要なのだろうかと疑うことも可能なのだと、この映画に気付かされた気がしている。物事は、何かに関連づけなくても、意味を与えなくても、ただそこに存在することができると。鑑賞中、ルービックキューブを正しい位置に戻そうとすることにナンセンスを感じていた、そのナンセンスの根拠はここに帰結するのかもしれない。赤なら赤どうし、黄色なら黄色どうし、隣り合って集合していなくても赤は赤だし黄色は黄色だということ。つい何事にも意味を探してしまったり、カテゴライズしてしまうことへの不自由さを省みる。

 10年後のヴィッキーがどのような暮らしをしていて、どのような思いで回想しているかはまったくわからない。声だけがそこにある。人がその人の人生を生きてきて、その人しか知り得ない記憶、場面、感情をそれぞれ持っていて、その質感を余さず他者と共有することは不可能なことだ。雲を掴むようなことだ(人が死ぬときに、その人の記憶の景色はもうどこにも存在することができないのだろうかと考えてしまうことがある)。その不完全な過去の像が、あの時代の電子音楽にのって他者であるわたしたち観客にふわふわとおりてきて、台北の高すぎる湿度のように毛穴に染み入ってくる。終始薄暗く、どことなくぼんやりした画面も、撮影の李屏賓(リー・ピンビン)の妙だ、ヴィッキーの記憶の質感なのだと今になってじわじわ迫ってくる。

 見た本数がまだまだ少ない今の所感ではあるけれども、侯孝賢の映画は、先日見た『童年往時 時の流れ』('85)もそうだったが、見ているあいだは淡々と見てしまう。が、見終わったあとになって気持ちが掻き乱されてやたら誰かに喋りたくなったり、胸に強く痕が残る。その痕の存在があまりに大きい。心理の域を超えた身体的な感触のように思えてくるのだ。

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