研究者が書く小説
今日は少し視点を変えて、研究者が書く小説について、論文との書く技術の違いと、いくつかお勧めの本をご紹介したいと思います。
私たち研究者は、日々の研究成果を、レポートや、論文にまとめます。その時の書き方はほぼ決まっていて、まず研究の背景、解決したい問題、研究の方法、データの入手方法、データの概要、分析、データ分析の結果わかること、導き出された政策への提言や、課題。そして最後に今後の研究の方向性、というように、大体書く内容と流れが決まっています。
私は、論文を書く時も、読者がわくわくした気持ちになれるように、できるだけストーリー性を考えて書きますが、それでもデータが示す事しか書けませんので、当たり前ですが限界があります。
ですので、論文と小説とは全く書き方が異なりますし、「書く」にあたって求められる技術も違います。
「思考を言語化する」という点においては、論文を書く際にもかなりの技術が求められます。しかし、この点においても、小説を書くのとは、全く使い方が違うわけです。
論文を書くのは本当に上手なのに、普段のメールや、SNSの投稿はそこまででもないという人がいるのは、論文を書く際にはほとんど書き方が決まっているのに対して、もっと自由度が高い他の文章は、書き方が個人によって違うし、内容の組み立て方も全く違うからです。
研究者が、たくさんの研究論文や学術本を出しているのに、エッセイはかけても、小説はそんなにたくさん書いていないのはこのことが背景にあるのではないかと思います。同じ「書く」という行為ですが、積み上げる技術が違うのです。
ところが、論文でも小説でも「書く」ということにとても秀でた人というのはいるものです。私は最近「ザリガニの鳴くところ」(作 ディーリア・オーエンズ)という本を読みましたが、小説の面白さにももちろん感動したのですが、作者のバックグラウンド(もともと動物学者として活躍されていて、この小説は、作者の69歳にして初めて出版された小説でした)ということに非常に感激しました。
小説の中に、たくさんの草花や動物に関する描写が出てきますが、これはもちろん作者のバックグラウンドによるものです。それをうまく小説の中に織り込むと言う技術は、論文だけを書いてきた者にとっては非常に高度なものです。この小説は、社会問題とミステリーをうまく絡めたもので最後まで気が抜けなく本当に面白い小説ですが、私はさらに、作者の「書く」技術の素晴らしさに感動しました。もしよろしければお手にとってみてください。
私が住むオーストラリアにも、もともと大学で教鞭をとられていて、今は小説家として活躍されている方がいらっしゃいます。松平みな先生です。私はご縁があり、松平先生と親しくさせていただいておりますが、なんと去年、松平先生の最新作「ひとすじの愛」の解説を書かせていただきました。
壮大な愛の物語です。松平先生は、子供の頃からたくさんの本をお読みになっていたそうで、「本が友達だったのよ。」とおっしゃいます。幼い頃からの読書習慣によって培われた、思考を言語化する技術が、書く技術に結びついているのだと思います。
松平先生の代表作は、「穣の一粒」で、これは、オーストラリアで初めて稲作を始めた日本人一家の物語です。
この高須賀穣と彼の家族が日本から白豪主義(当時)のオーストラリアで大変な苦労しながら稲作を始めなければ、今私たちがオーストラリア産のお米を食べる事は、もしかしたら実現していなかったかもしれません。本当に素敵な物語です。
日本で大活躍されている学者では、千葉雅也さんも小説を書かれていますね。本当に凄いと思います。
私も、子供の頃から本が大好きでずっと小説を読んできましたのでいつかは書けるかなと思っていますが、今はとにかくコツコツと自分の研究を積み上げて研究論文や学術本を発表することに集中しています。
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