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目を凝らせば

ひとえに「シンガーソングライター」と言っても、やりたいことも得意なことも好きなことも嫌いなことも持ってる使命も全員違う。

誰にも頼まれてないのに、ポエムを綴りメロディーを付け自分で歌い、挙句の果てに赤の他人に金を出して聴きに来いという気の振れた活動を始めて、もう10年以上経つ。

それなのに、私は自分のことを「ミュージシャン」だと思ったことが一度もない。

「ミュージシャンの方ですか?」とか「歌い手さんですか?」とか色んな言われ方をするけど、いつも「シンガーソングライターです」と答えている。

私が思うミュージシャンは、洋邦ジャンル問わず音楽を愛して精通していて、音楽が大好きで、聴かずにいられないし歌わずにいられないし演奏せずにいられない、その過程で高いスキルも自然と身についたというような、いわゆる「音楽人」。

インタビューでルーツを聞かれれば、数え切れないほどのアーティスト名や曲名が出てきて、
熱量を持って語り、語るだけじゃなくてもちろん片っ端からカバーしているような。

私は正直、そんなに音楽に精通していない。
日本語の歌詞が好きなので、洋楽にいたってはほとんど聴かない。

あまりにも音楽を知らないので、周りのミュージシャンに呆れられてきたし、色んな場面で「音楽ルーツは?」と聞かれるたびに困ってきた。

「もっと洋楽を聴いた方がいいよ」と、100万回くらい言われた。

こんな活動を長らく続けていながら、ミュージシャンじゃなかったら何なのか。

私は、人の曲を延々と歌えるのではなく、あくまでも自分で描いた詞を歌いたいがためにメロディーをつけて曲にしているのであって、
自作の詞・自作のメロディーがあること前提でようやく「歌」があるので、ボーカリストでもない。

私が魅了されているのは「音楽」ではなくて、「想いが伝わった瞬間の感動」。

これまでの人生で、それを一番生々しく体感できたのが、「自作の詞を自作のメロディで人前で歌う」ライブという現場だった。

もちろんそこに至るまでに、それを既にやっている世の中のアーティストに魅了されて真似を始めた訳だけど、同じアーティストに触れてもそれのどこに魅了されるかは人それぞれ。

声なのか、歌なのか、メロディーなのか、鳴っている楽器なのか、曲の構成なのか、使っている機材なのか、ライブの高揚感なのか。

私は何を差し置いても、とにかく「自分の想いを自分で形にして人に伝えていること」に魅了されて、それをしたいと思って始めた。

私は学生時代ずっと絵を描いていたので、曲をつくるときも絵を描いている感覚ととても近い。

歌詞が輪郭。メロディーや鳴ってる楽器は色。

高校で演劇をやっていたので、ライブで歌っているときは、音楽としての「歌」を歌っているというよりは、演劇で舞台に立っているときの感覚ととても近い。

私はあの「想いが届く瞬間」のために「音楽・ステージ」という手段を使わせていただいている、という感覚。

私にルーツがあるとしたら、それは生まれ育った町の自然であり、学びを与えてくれた本たちであり、周りのいとしい人たちであり、コミュニケーションを取ることの喜びであり、絵を描くことであり、演劇で舞台に立ったことであり、何より「形に残したい・人に差し出したい」と思うほどの、日々の中に散りばめられた"想い"。

ルーツを聞かれるときに、
誰みたいなアーティスト(ミュージシャン)になりたいか?とかも併せて聞かれるけど、その質問にもいつも困っている。

今そう聞かれたら、そうやな、平野レミさんやRIKACOさんやローラさんを挙げるかな...吉本ばななさんや栗原はるみさんも外せないな...

軸があって、人に笑顔と安心感を与えられて、自らの死生観に基づいて日々を慈しんで生きている人。しなやかな強さのある女性。

想いを表現して生きているすべての人がアーティストだから、私からしたら人はみんなアーティスト。

だから、私は「誰かみたい」よりも、とにかく「北村瞳になりたい」といつも強く強く思っている。

私は、自分が何がやりたくて、何が得意で、何が好きで、何が嫌いで、どんな使命を持っているのか知りたい。

それを表現して生きることで、私自身はもちろん、私に関わってくれる人たちのことも豊かにできると信じている。

私は、自分の心が躍るありとあらゆる手段を使って、日々を慈しむ心をシェアしたい。ときめきをシェアしたい。

いま主に使わせてもらっている手段は「ステージに立って自作曲を歌うこと」だけど、心が躍るならそれ以外の手段だっていい。

こんな私にだからこそ出来ることが、あと少し、心の内側を覗き込んで目を凝らせば、きっと視えてくる。

いま、ものすごくそんな気がしている。

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