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遠く

東京に住んでいた頃、とてもお世話になった子がいる。 

 今は疎遠になってしまったけど、 その子の言葉に何度も励まされたり「ハッ」とさせられたりしたし、 私が音楽活動で悩んだりしているのを相談すると、その子は私のことを客観視してるのでとてもシンプルな意見が返ってきて救われたりした。


よくご飯にも行ったし、長電話もしたし、お互いの家に泊まったりもしたし、小さな事でいっぱい一緒に笑ったし、 その子がどんな事に興味があってどんな家庭環境でどんな経緯でどんな塩梅で生きているかも知っているつもりだった。

 些細なことでも「ありがとう」と言ってくれる子だった。 

 私自身が話したことすら忘れていたようなしょーもない話も覚えていてくれる子だった。 

 人からの頼まれごとはすぐ取り組むところとか偉いなぁと思っていた。

 口数は多い方じゃなかったから、その子がわざわざ口に出してくれたことは本心なんだろうなという勝手な信頼があった。 

 仲は良かった(と私は思っている)けど、友達の多い子だったし、そういう人は誰に対してもそうだから、親密な人はたくさんいたと思う。

 書いてて思い出したけど、その子も私に対して同じことを言っていた。 

 「瞳は色んな人と色んな話をして色んな場所に行くから、私と行った場所とか話したことなんかいっつも忘れてる」と不貞腐れていた。 (申し訳ないと思いつつも今もそうやな... 最近は自分のお姉ちゃんにコレを言わせてしまった...)


お互いの環境が変わったり、日々の忙しさに暮れているうちに、なんとなく会う回数が減って、そのうちにその子が私より先に地方に引っ越したという話を人づてに聞いた。

 その数年後、亡くなったということも人づてに聞いた。

 冒頭には「疎遠」と書いたけど、最初から死のイメージでこの文章を読み始めてほしくなかったのと、 私の中では「死」より「疎遠」くらいが感覚として近い。


随分長くなったけど、書きたかったのはここから。

 その後、その子が背負っていた深い深い「業」があることを知って その子の行いで深く傷ついた人が沢山いたことを知った。 

 だけど、私が知っていたその子とはあまりにもかけ離れた話だったから、なんだか結びつかなくて、その話を聞いても私はただボンヤリしていた。


たくさん思い出があるから、やはり時々思い出して悲しくなってみたり、何でもない時も勝手に引っ張り出して浸ってみたりしている。 

 買い物に行けば「コレ好きそうだな」とか「こんなこと言ってたな」と思ったりもする。 

 だけどふと思う。 「あの子が本当はどんな人だったのか」が思い出せない。 

 思い出せないというより、「知らない」。

 思い返してみれば私はその子といるとどうも心地良すぎて甘えてしまって、自分の話ばかりしていた。  

 私は私にとって心地良い側面だけをその子から切り取って、勝手にその面だけを「その子」だと思っていたんだろうな。 

 それが良いとか悪いとかいう話ではない。

 だけどなんとなく、とても薄っぺらい関係だったのかもしれないな、と思う。 


 生きていると色んな事がある。色んな人に出逢う。 色んな想いを交わす。

 この惑星にとっては、全ては取るに足らないこと。

 だけど私にとっては、それが全て。 

 あの子と過ごした日々のことが、誰かにとっては忘れたい過去で、私にとっては温かな思い出であるように、 私たちひとりひとりは多くの側面と役割を持っている。 

 心から信頼できる人なんて、関係が深い人なんて、本当に本当にひと握りで、いや、一人でもいればそれは物凄いことで、 自分も誰かにとってそういう存在であれたらなんて、とても贅沢なことを思う。

 いつかまた会えたら、なんでもない話をして、あの子が好きだった珈琲が美味しいお店を教えてあげる。

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