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書いて、叫んで、その向こうへ

6月から続いている言葉の企画も、あっという間に残り2回。

いろんな渦がまきおこっている中で、どこかそわそわしていた第5回の課題は、「記事を書こう」でした。


この振り返りnoteを書くことも、もうすっかり手になじんできたなぁと思いながら、阿部さんのメールになんども登場するこの言葉を見返し、声に出して読んでいました。

講義で感じたことを“たぐり寄せて”自分の話を書く。

うん。書ける。

だって、今までで1番、“たぐり寄せる”ことができた回だったから。講義をもとに、わたしだけの話をしよう。

サムネイルも、がらりと変えて。一息ついて。

よし。



わたしにとって書くことは、静かでだだっぴろい草原にひとり叫んでいるような行為でした。

生きるのが苦しいと思った時、その心を掬いあげるように、わたしが前を向くために書いてきました。ひとつひとつの記事に思い入れもすごくあるし、つらさもうれしさも、気持ちをまとめてしまっておくための宝箱、というときれいすぎるけれど、押し入れぐらいには思っています。


阿部さんも言っていた言葉たち。

書く先に人は進める。
「今思えば」は魔法の言葉。今、そう思えることが大事。
過去は変えられる。「心地よいこじつけ」によって。

うん。すごくわかる。

実感をもって響きました。


いままで、数は少ないながらも叫んできて、ふたつのよろこびを知りました。

人を前にすると話せない、うまく伝えられない気持ちを、じっくり心ゆくまで言葉にできるというよろこび。

そして、

読んでコメントやメッセージをくださる方のありがたみ、言葉からひとりひとりの思いを感じ、あっ、苦しくていいんだ、わたしだけではないんだ、と気づけたよろこび。


苦しい現実は変わらないとしても、書くことで過去を直し、わたしを治してきました。


まるで、薬のように。


でもね、わたし、気づいてなかったよ。

良薬には ”副作用” がつきものなんだよね。

じわじわと、そいつは効き始めていたんだよね。


第5回の課題のアンサーでもあった、人生の伏線を回収するnoteを書いてから、人に伝えるための言葉をもうなにも書きたくない、という奇妙な衝動におそわれるようになりました。

記事を非難されたわけでもないし、わたしがわたしを救うことはできたのに、わたしの思いや意志を伝えてだれかを傷つけてしまうかもしれない、いや、もうすでに傷つけていたのかもしれないと思い、すべての発信が恐くなるのでした。

きっと、悲しいニュースをひきずったからでも、言葉を超えていく体験をしたからでもあると思うし、それだけではないとも思う。


SNSで発信すればするほど、それによってだれにどんなわたしを見つけてもらいたいか、少しずつわからなくなっていて。わからないままにのうのうと言葉を発しているわたしがどんどんいやになっていく日々でした。

日々の生活を残すためのインスタグラムも、日記でいいじゃん。と思っておやすみしてしまったり、ツイッターで気軽にリプを交わしている人たちをみて、(その人たちはなんにも悪くないのに)勝手に泣きそうになってしまったり。


しかもこの副作用、まことにたちが悪く、わたしにこうささやいてきます。

「お前は優しさや思いやりからだれかを傷つけたくないと思っているのではなく、自分が傷つきたくないからだれも傷つけたくないだけなんだろう?」と。「結局どこまでいってもお前はお前だけが1番かわいくて、嫌いになりたくないんだろう?」と。

おう、兄弟?とでも言うように。

わたしの中で次第に存在感をましていく、強くて醜い心にひょいっと手を伸ばし、はっきりとその存在に気づかせるのです。


そんな副作用におそわれると、心の奥の奥の奥でこんなにも自己中心的でめんどくさいわたしなんて、もう誰とも気持ちを通じ合わせることなんてできないと思い、うんざりして。同時にどこかでほっとしているようでもあって、その安心でさらに苦しくなるという感じでした。


いや、うそ。過去形で書いたけれど。

正直、わからないんです。今でも。

いつになったら「楽しく」SNSを、わたしを、開けるようになるのか。


阿部さんは、

SNSは友達ではなく自分を増やすもの。
書くことはまだ見ぬだれかに見つけてもらうチャンス。見つかること、見つかりにいく努力が大事なんです。

と、言っていましたね。


きっと、この「見つけてくれ…!」という衝動が、わたしにはまだ弱くて。情けないけど。

まるで通勤ラッシュの中で自動改札をとおるときのような、下りのエスカレーターの一歩目を踏み出すときのような、どこか焦るような戦うような気持ちでSNSの世界をみてしまうし、発信してしまう。

だれかの苦しみに気軽にいいねを押せることにもやもやしたりもして。



そんな、やっかいな副作用に苦しんでいた講義前のある日、たまたま録画リストに入っていた日々是好日という映画を見つけました。

タイトルと、大好きな樹木希林さんと黒木華さんが出演されていることに惹かれ、静かに、でも食い入るように観ました。


ごつごつとした茶碗。それをすくいあげるような所作。ししおどしの音。水面にふりそそぐ木漏れ日。たたみの上をなめらかに歩く足音。しとしととふる雨。季節の移り変わりとともに舞う桜をただ見ているふたりの表情。


短い人生ながらさまざまな美しいものに出会ってきましたが、これほど美しいと思った作品ははじめてでした。ひとつひとつの情景を五感で味わうような映画で、光に満ちていて。終わったあとも残像にうっとりとしていました。

言葉という、発した瞬間に発することのできなかった気持ちがこぼれたり、発すること自体がだれかを傷つけたりもする、やっかいでどうしようもないものなんかより、ずっと、ずっと、美しいものにあふれているように思えて。


あまり多くない台詞のなかで、わたしの心をゆさぶった言葉。

世の中には、すぐわかるものと、すぐわからないものの2種類がある。
すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつわかってくる。

(予告編の冒頭でも使われていました。黒木華さんの自然で美しい声の響きとともに、聴いてみてください)


なんども巻き戻して、ゆっくり音読して、静かに泣きました。


わたしには、わからないことがいっぱいあって。わたしはそれでいいと思っていて。でも、生きていたら、他者と関わっていたら、「わからない」ことを理解してもらうために、言葉で説明しなければいけなくて。意味や解釈をつけないと、他者に「わかって」もらわないと、社会で生きていくことはできなくて。

そんなすべてから、逃れたい。

理由とか、論理とか、説明とかいう言葉から、いまは離れたい。

断片的なものを断片的なまま受け取って、その美しさ、その哀しさに我を忘れたい。

はっきりと、思いました。

そんな日々を、日々是好日と呼びたい、と。



講義を終えて、阿部さんの生き方を吸収したいま、改めて、強く思います。

書いて、叫んで、共感をいただいて、わたしを救って、はい終わり、ではなくて。

これからは、わからないことをわからないままに受け止めるという行いを、増やしていきたいなぁって。

勝手な憶測とか、背景を知らずに解釈するとか、表面的でわかりやすいものをわかりやすく享受するとかいうことから、もっと離れていきたいんです。

それはもう願望というより、そうしないとわたしがわたしを生きていけないという感じ。


わかりやすさを遠ざける中で、なにを感じ、なにを書き、発信することでだれに見つけてもらいたいのか。

もうそれは、わたしはどう生きるか、という問いと同じで。

わたしも全部がみえているわけじゃないし、理解されないのかもしれないけど。


講義での阿部さんの言葉にもあったように、

書く上で、まずは、自分と、最初の相手を考えよう

まずは、顔が浮かぶ大切なあの子へ、あの人へ、わたしから見える景色を、わたしが感じたことを、届けたい。

そして、それとはまた違ったところで、

生きることが苦しい人たちや、社会のものさしから外れてしまう、しまった人たちに寄り添えたらいいなぁと、ぼんやり思っています。


言葉の企画という「そと」の世界を知って、もまれていくなかでみえてきたのは、わたしという「うち」のことで。

わたしはわたしを救うのに時間がかかったし、これからもかかるだろうけれど。生きている限りずっと、治療中であるだろうけれど。

生きるのが苦しいからこそ、救うってことが、そんな簡単ではないことだけは、わかっているつもり。苦しんでいるあなたを救いたいなんて、軽々しくは言わない、言えない。

だけど、

書いて、言葉を届けることは、わたしにできる、よね。

傷つけたり、間違えたりするかもしれないけど、どんな景色になるのかなんて見当もつかないけれど、

だれかに寄り添うことはできる、よね。

ねぇ、兄弟。そうでしょう?


わたしの叫びは、わたしを生かしてくれていて、わたしは書くことのよろこびを知っているのだから、それだけは確かなのだから、もう充分。

いまは、この小さな確信を、大切に握りしめて生きていたい。

次回へ、そしてその向こうへ、繋げるために。



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