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「贈与論と自由」

…フランスの社会学者・文化人類学者マルセル・モースが『贈与論』を著したのは一九二四年。彼は未開社会や古代社会を題材として、物々交換などの経済取引に限らず、部族間の儀礼、軍事活動、婚姻、祭礼といったあらゆる社会文化活動が、「贈与」とそれへの「反対給付」という形での「交換」によって成り立っている様を同書によって描き出した。
 そしてそれは現代においても人間社会の基底をなすメカニズムであると。

 ”われわれは、このような道標と経済が今もなお、いわば隠れた形で
 われわれの社会の中で機能していることを示すつもりである。また、われ
 われの社会がその上に築かれている人類の岩盤の一つがそこに発見された
 ように思われる。それらによって、現代の法と経済の危機が生む問題に関
 するいくつかの道徳上の結論を引き出すことが出来るだろう。”

 ここで「道徳」という用語が用いられていることも印象的だ。
 時は第一次世界大戦後。そして世界恐慌前夜。フランスは戦勝国であったとはいえ、数年後破たんへと向かう世界経済の空気を、モースも感じ取っていたのだろうか。
 モースは同書中、社会を成り立たせる三つの機能について言及している。

 ”全体的給付は、受け取った贈り物にお返しをする義務を含んでいるだけ 
 でなく、一方で贈り物を与える義務と他方で贈り物を受け取る義務という
 二つの重要な義務を想定している。”

「贈ること」「受けること」「返すこと」は、人間社会に埋め込まれた「せねばならないもの」「当然するべきもの」としてあらゆる断片に現象化していると言うのだ。それはある意味、望むとか望まないとかいった「自由意思」とは別次元でのこととして。そしてそのメカニズムが作動することで、人間社会は人間社会たりえてきたのだと。
 以来100年近くが経った。この100年という時代を主導し、ぼくらが獲得を目指してきた価値観は「自由」ではなかっただろうか。
「私のことは、私が決められる」という規範。

 実際ぼくらがお店をやりコーヒーを提供することは義務ではない。またお客さんがお店を訪れコーヒーを飲むことも義務ではないだろう。それぞれの自由意思に基づいて、一つの経済的な交換が行われているように見える。
 ただそれが自身の利得を動機とした交換(テイクの動機に基づいた交換)であるとすると、社会から「贈与」が失われる。それが、ぼくらがこの100年で獲得してきた取引の様態であるとも言えるだろう。

 だがぼくらは、ぼくらの社会を成り立たしめてきた基底のメカニズムから、そう簡単に自由になれるのだろうか。

 モースの「贈与論」と、現代社会の「自由」。
 そのミクスチュアにこそ、これからの経済社会の持続可能な形が見えてくると自分は考えている。

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影山知明(クルミドコーヒー店主)著
「ゆっくり、いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済」(大和書房)p.66

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