見出し画像

「成ることの叶わない存在について」

 女は弱かった。これは、物理的な話ではない。人間が持つ本質的な弱さの話である。女は自分が一人で生きていけないことを知っていた。それでも誰かを求め、自分を愛する存在をいつも探していた。そしてそれがある時、女はもっと弱くなった。誰かのぬくもりを覚え、それに触れられなくなると考えた時が、女を余計に孤独にさせた。

 自分から香るよく知った洗剤と淡い匂いだけが、女を酔わせた。冷蔵庫にいつまでも残り続けるシャーベットと、一口食べてしまったいつかのチョコミントが、女を余計に惨めにさせた。自分だけの安全地帯に確かに存在した異質なものを、二度と洗うまい、と心に決めビニール袋の口を固く閉じた。


 九月の終わり、暑いのか寒いのか曖昧な間の中で自分が存在することを認識させるものは、心地よく耳を揺らす午後の風だけだった。もう車窓から見る外は青い。自分の生活時間がそこに戻ってくることを感じる。
次の休日は何をしよう。家に居てできることはただ、書いて書いて書くことだけだ。でも今はその気分でもない。書くことができるのは本当に幸せな時か、その幸せを失うまいと必死に感情を言葉にしようとする時のみだ。もう失ってしまったものを言葉にしても、女には何の意味もなさない。


 いつもの2番出口を左に直進、平日の夕飯時にしか開いていない魚屋を横目に、愛想の悪い年配の夫婦が営むタバコ臭い喫茶店の上、ワンルーム。特に何も変わらない。ただ、急行に乗り最寄りより3駅先で乗り換えることは、もう二度とないのだろう。ここは女の家で、女の住む街でしかない。東京に来てから一回も引っ越したことはない。これからもきっとないだろう。特別気に入っているというわけでもない、ただここに住み続ける限り記憶は更新されていく。思い出のひとつとして、名前を見ただけで存在を懐かしんだり、美化し続けるような気色悪いことをしたくないだけだ。変わらなければ、そこはただの日常として存在し続けるだけである。「あの時間を過ごした街」というそのものが、女にとっては邪魔なだけだ。だからずっとここにいる。女はそこに居続けるのだ。


 女がボブの時、「髪は伸ばさないで、顔まわりで整えられた動きやすそうなその髪が好きだ」と言っていたのに、数年後ロングになった髪を見て「もう切らないで、大人っぽい雰囲気が特別で好きだ」と言われた時、女はその単純さと馬鹿さに、胸が愛しさでいっぱいになった。一度近づいた記憶が残っていれば、どれだけ離れていた時間が長くても、その時の気持ちは簡単に思い出すことができる。自分を新しく知ってもらう過程は、愛しいものでもあるし大切な時間ではあるが、長くかかるし曝け出すことに生まれる抵抗感から億劫になることもある。互いについて知っているということは、それだけ共有された時間も人も多いという、ひとつの掛け替えのない形なのだと気がついた。ゴミ箱を漁るのと、奥にしまっていたガラクタを大切に取り出すことは、似たようでいて大きく違う。

「君についてならいくらでも書いてあげられる」

と女は言った。それは、愛しているからでも、過ごした時間が映画やドラマのようだったからでもない。側にいた分、嫌いなところを言語化出来るからだ。女にとって、愛という感情が生まれるのは瞬間ではなく、経過であったので、それを言語化するのは得意ではなかった。二人にしか解らない、思い出せない空間や時間を、他人に物語として消化させるにはそこにドラマを生む必要がある。きっと創作をする側の人間には、何気ない一瞬をそうさせることができるのだろう、そしてそれが美しく存在していく。

しかし、女にはその力はなかった、離れてからも愛され探され続けるような美しい才能を女は持っていない。ただ、共感性の高い、扱いやすい憎しみを女は武器として持っていた。でもそれは女を余計に惨めにさせるので、結局最後まで教えなかった。そういうことが何度もあった。

 女が本当に願うのは、自分の幸せでもなく、相手の幸せでもなかった。自分のことを忘れずにいろという、ありふれたエゴだ。女は自分の記憶に日常を残すことを嫌った。しかし、自分は記憶の中で美しく特別な思い出でありたがった。それは誰にでも叶うことではない。だからそれを願った。それが側から見て気持ちの悪い行為だったとしても、女はそうすることで少しでも忘れられることから離れたがった。そして突然ふつりと切れた感情の線を一方的に捨てるのだ。これが女の弱さである。

 手放すことはさほど難しくない。何も特別ではない、ただ時間を知っているだけ存在。そこに執着は存在しない、清々しいほど綺麗に別れを選ぶことも出来ただろう。そうすることが正しいことだったようにも思う、しかしそれは、女の望みではなかった。生えるべき温かい場所で摘み取られた花とは違う。女は正しさなど、疾うに捨てていた。これから出会う相手の過去になるのには時間も体力もいる、過去を越すことが出来るかも解らない、疲れると分かっている関係に期待をするくらいなら、今この瞬間の忘れられない過去になりたいと女は願うのだ。

「髪は伸ばしておくから、いつか焼きたてのアップルパイでも、食べにおいで」

自分だけが相手に残せる言葉を紡いで、女は二度と急行には乗らなかった。


張りのある薄桃色の肌を、サテンの裾の広がった勿忘草色のスカートから覗かせる。白いパンプスのかかとを弾ませるように歩く、風が吹いて靡く黒い髪から左耳にだけ見えるイヤリング、その姿はきっと。


一番好きだと言っていた笑顔を、夏の終わりに魅せれば、もう追うことも出来ない。


嗚呼、なんて狡くて弱くて、恋しい、あの女。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?