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『全てへ捧ぐ愛はない』

 五年ほど使っていた腕時計を失くした。スポーティーでタフなアナログ式の黒色のG-SHOCKで、気取らずに身につけることができていたのでオンオフ問わず何かと重宝していた腕時計だった。「必要なくなったものは自然と離れていく」みたいなことをどこかで聞いたことがあるけれど、仮にその法則に当てはめるのなら、これは「時間に縛られるな」とか「生き急ぐな」という天からのメッセージなのだろうか。心当たりがないこともないけれど、現時点で不便さとショックの圧勝である。出先でスマホの充電が切れて近くに時計が見当たらないものなら、普通に今が何時かわからないのだ。それから手元の小物としての役割も担っていたので、どうするんだい、特にこれからの薄着の季節。調節しても結局は二分ぐらい早く時を刻んでいて、そのことを頭ではわかっていながら毎朝電車に間に合うかハラハラしていたあの日々が儚く遠のいてゆきます、春の風とともに。

 そういえば失くしたり離れていったりするのは何も物に限ったことではなく、人間関係でも時々あるのではないだろうか。ちなみに、ひょんなことからそのような話を誰かとする機会がある時は「波動」とか「周波数」という例えを用いることが多く、それらは自分自身のその時の心持ち次第で常日頃から絶えず変化していっていることをその度に主張している。例えば、つい最近まで連絡を取っていたのに向こうの出産をきっかけに疎遠になった友達とは「周波数が変わったか。どっちも悪くないし、またいつか一致することがあれば」と割り切ってしまう。また、ずっと一緒に遊んでいた友達と明らかに向こう側に非があって仲違いした時は「こっちの魂のレベルか何かが上がって、ついてこれなくなったか。先行くわ」と思ってしまうのである。しかしそのような時は同じぐらい「明日は我が身」と自分自身に言い聞かせていて、これまた心持ち次第ですぐに堕ちることもできてしまう危機感を常に抱いている。勿論、完璧な人間なわけがなくて間違えてしまうことだって時にあるけれど、「正しく生きたい」と日々失敗や反省を繰り返しながらも試行錯誤しているのだ。

 歳を重ねるごとに、人間関係が洗練されていくことを実感している。そのことに寂しさを感じることもあったけれど、今は逆にそれで良いと思う。それよりも、ご縁あって今周りにいる人たちを大切にしたい。そして、そうしていくためにはまだまだ未熟なりにでも、やっぱり自分自身を律していかなければならない。

 イヤフォンの向こうで、カネコアヤノが歌うように「全てへ捧ぐ愛はない」のだから。

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