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『一行も書き進めることができていなくても』



 仕事から帰ってただ疲れて眠るだけの日々が続く。酷い時などは、帰宅してそのままジャケットも脱がずにソファで眠ってしまっている。そのような時は結局、電気も点けっぱなしなままのため夜中に目が覚めてしまうという悪循環を連日繰り返している。台所に溜まっていく数日分の洗い物を今日も片付けることができず、何とか回すだけ回して結局干すところまで辿り着けていないタオル類の山が洗濯機にはぶち込まれたままだ。どちらも衛生的に待ったなしなのは頭ではわかっていても、やはり夜中から家事を始める気になど到底なれない。


 朝、スマホのアラームのスヌーズで布団から出て、シャワーを浴びる。熱い湯で身を清めたことによって、束の間シャキッとした気持ちになる。家を出るまでに時間的に少しでも余裕があればここで弁当を詰める(冷凍食品のオンパレード)。テレビでニュースを流しながら、せかせかと淹れた熱い珈琲で舌を火傷しそうになりかけながら。起きる時間が遅くなってシャワーを浴びる時間が押してしまった時は弁当を詰めるのを諦めて、珈琲は飲みかけのまま家を出ることになる。始業と同時にパートさんたちが仕事を始められるように準備を整えておくためと、日中バタバタと忙しくなる前に少しでも事務処理を終わらせておきたいので、毎日必ず始業の一時間ぐらい前には出社するようにしている。

 
 「生きてる?」

 「このままで繁忙期乗り切れるの? 今のままだと本当に潰れるよ」 
 
 「週末はゆっくり休んで」 

 「何かできることがあったら言って」

 「既に屍になってるって噂を聞いたよ」
 
 「一人で抱え込むな」


 気づけば、もうずっと文章を書くためにパソコンを開くことができていなかった。むしろ最近は、今後の仕事上でのスケジュール管理や作業計画のために各案件の作業時間と特徴や注意点などをExcelでまとめるために、パソコンを開いていた。能力や経験以上のポジションをこなしていくためには、そういったプラスアルファが必要不可欠だと日々痛感している。しかし、同時に「文章も書かずに家にいる時まで何をやってるんだろう」ともいつも思ってしまう。そして、誰かと競っているわけでもないはずなのに、今どこかで一行を書き進めている見知らぬ誰かとまた差がついてしまったような気持ちに勝手になっている。
 

 三十歳を過ぎてから、仕事をしながら好きなことを続けることに対するその考え方は、予想もできないほど目まぐるしく年々変化していっている。仕事で置かれる立場が変われば自ずと文章を書くことに費やせる時間だったり向き合い方だったりを、そこにフィットさせて乗りこなしていかなければならない。今ここで匙を投げてしまうことだって簡単にできてしまうけれど、何とか試行錯誤してでもまだ好きなことを続けていきたい自分がいる。


 一行も書き進めることができていなくても、日々はめまぐるしく過ぎていく。
 しかし、その一日一日にしがみついて奔走していると、まるで「このことについて書きなさい」と言われているようなできごとが起こったり、ずっと考えていた物事などが腑に落ちて「このことについて書かなければ」と思う瞬間がある。それらはくっきりと明白で、そのような瞬間に出くわす度に「あ、まだ書いていて良いんだ」と、不思議と思わされる。


 一行も書き進めることができないまま、今日がまたお構いなしに過ぎていく。
 しかし、そのような足踏みしてしまっているようにに感じていた日々がこうしていつか意図していなかった一行に繋がっていくのなら、人生まだまだ捨てたものじゃないとも思うのだ。

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