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『スパイ疑惑におののいてビトイーン』⁡


⁡  栄に引っ越してきてから近所にずっと気になっているこぢんまりとした八百屋があったのだけれど、ずっと足は遠のいたままだった。引っ越してきた当初から既に日用品や食品の買い物は、近隣のドラッグストアや隣町のスーパーマーケットまで出向くことが定着していたし、その八百屋が日曜日定休で土曜日しか行けるチャンスがなかったためである。しかし、引っ越してきてこの一年半の間、明らかに時代錯誤かつ異彩を放っているこの八百屋をとうとう黙殺することはできなかった。一度、土曜日の昼間にその八百屋の前を通ることがあったので店内を覗いてみると、まるで時空が歪んだようなスローウィーな雰囲気と、都市開発及び時代の変遷に全くもって迎合してこなかったことが推察される老舗にしか出せない独特な風格を漂わせていて、急速的にこの八百屋の際立った存在感を意識することになる。もはや栄で生活するからには、この八百屋を避けて通るわけにはいかない気さえしてきた。(我ながら幾分アンダーグラウンドに寄せた色眼鏡を掛けがちな趣味趣向及び願望全開)そして、とある土曜日、ふつふつと抱き始めた使命感と好奇心くすぐられるまま、遂にその八百屋に足を踏み入れることになる。お値打ちだとか人情があるだとか、もしもこの八百屋に何か魅力を発見しようものなら、こういった昔ながらの個人経営のお店にこそお金を落とすべきという価値観も以前から持ち合わせているつもりだ。


 店内に入ってすぐのレジに立っているおばちゃんに「こんにちは」と挨拶する。高いところに設置されたテレビから流れるサスペンスドラマからこちらに少し目をやったおばちゃんはどうやら「来るもの拒まず去るもの追わず」のスタイルで、すぐにまた視線をテレビに戻す。ちょうど買い物客が他に誰もいなくて、少し緊張が走る。店先から所狭しと雑多に陳列された日用品や食品。久々に目にする商品に貼り付けられた税込価格の値札シールが、何だか力強い。色とりどりの野菜や果物といった生鮮食品が古びた冷蔵ショーケースに陳列され、これまた年季の入った業務用冷蔵庫には肉類や魚介類の入った発泡スチロール製のトレーが種々雑多にぶち込まれている。客に全く媚びていないどことなくゆるくて大雑把な雰囲気が店内に充満していて、一瞬まるで東南アジアの街の商店にでもトリップしてきたような錯覚に陥りそうになる。少なくとも、今ここが栄だということは確実に忘れている。


 「値段を調べて見えるの?」


 スマホのメモに書いておいた買い物リストを見ながら店内を行ったり来たりしていると、急にレジからおばちゃんが声を掛けてきた。さっきまでサスペンスドラマに釘付けだったはずのおばちゃんと目が合って、一気に増す雰囲気はシリアス。おばちゃんの表情は相変わらず崩れることはなく、確実に訝しげな視線がこちらに向けられているのがわかる。特に買いたい物が見つからず、(スーパーマーケットの値段と比較することそのものが野暮なことだけれど、明らかにどの商品もスーパーマーケットと比べて値段が高いことは一目瞭然)ただ単に店を出るタイミングを見失ったままスマホを片手に店内をウロウロしてしまっていたことを胸の内で密かに猛省する。しかし、こちらのその胸中とは裏腹に、今まさにおばちゃんから同業者のスパイ疑惑が我が身にはかけられている。何とか一刻も早く、この疑惑を払拭せねば。こちとらただの通りすがりのカスタマー。


 「いえ! 普通に買い物してます!」


 そもそもスパイが「ええ! スパイですとも!」なんて素直に自白することがあろうわけもなく、よってますますこちらへ疑いの目を向けてくるおばちゃん。おばちゃんが目を離しても、高い位置のテレビからはサスペンスドラマが垂れ流され続けている昼下がり。もはや、どう足掻いたってこのシチュエーションは白昼堂々同業者のスパイ。はたまた、たとえこの栄らしからぬ異質でカオスティックな雰囲気に飲まれてしまっていたのだとしても、やはり窮鼠猫を噛む。


 「歯ブラシを探してるんですけど、見当たらなくて! 置いてますか?」


 スマホの買い物リストの中に歯ブラシを見つけると、咄嗟に自分自身を「歯ブラシを探して三千里、その途中で偶然この八百屋に立ち寄ったさすらいのカスタマー」にでっち上げることを決意する。決して望んでなんかいやしなかったこのシリアスな展開と予想だにしなかった結末。もはや、少しでも波風を立てることなく、あわよくばお互い少しでもウィンウィンに近い状態でこの八百屋を立ち去りたい。これは、そのためについてしまった優しい嘘。


 隠しコマンドを入力しないと出現しないような商品が入り乱れる棚の隅っこから、おばちゃんは何本か輪ゴムで留められたいくつかの種類のビトイーンを引っ張り出してきて「どれにする?」と見せてくれた。「一体このビトイーンたちは、どれぐらいぶりに日の目を見たのだろうか」と、少し思いを馳せてみる。そして、遠回りはしたけれど、その光景はようやく店側と客側のやりとりのそれだった。


 ターコイズグリーンを基調としたレギュラーかためのビトイーンを一本、百五十円で購入して八百屋を出た。
 その後に買い物に行った大手ドラッグストアで同じビトイーンが九十七円で売られていたのを見かけたけれど、不思議と後悔はなかった。 

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