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『Dragon Ashが流れると気後れしてしまう』⁡

 同世代の友達の車のBGMでふとDragon Ashが流れると、どうしても気後れしてしまう。Dragon Ashがオリコンチャートを賑わせていたのは中学生の時で、年齢的に恐らくど真ん中の世代に当たるからこそ「当時、熱心に聴いていなかった」その呪縛は、より色濃くなってしまうのだろう。
 「懐かしい」と遠い目をしている運転席の友達の横で「う、うん」と、連れない相槌を打ってきまりが悪そうにしている自分。そこで心置きなく共感できたら、どれだけ良いことだろうといつも思う。また、青春時代とも呼べるあの頃へ束の間タイムスリップできそうな絶好のチャンスに何だか水を差してしまったみたいに感じて、さらに申し訳ない気持ちになってしまう。同時に、隣りで恍惚とした表情で思い出に浸っている友達が羨ましく、憧憬の念をいつも抱いている。
 中学三年生の時の文化祭でクラスごとのステージパフォーマンスがあり、その最後に『Life goes on』の冒頭部分を歌うことになった。当時のDragon Ashにまつわる数少ないエピソードといえば、英詞のみで構成されたその文化祭で歌う『Life goes on』の冒頭部分だけを実家のリビングのMDコンポから何度も繰り返し流しながら、特にテンポアップする「just a one little thing,each one of us,one another life goes on」の部分の歌い方を結局最後の最後まで曖昧にしたまま何度も練習したことぐらいだ。だから、あれから二十年ほど経って大人になってからも心のどこかで、夜な夜な『Deep Impact』や『百合の咲く場所で』や『静かな日々の階段を』、それから『Grateful Days』などをリアルタイムで聴いていたであろう、当時のまだ中学生の頃の友達へ未だ幻影的な憧れを抱いている節がある。ちなみに二十五歳ぐらいの時に、まるでその「世代ど真ん中なのにDragon Ashを聴いてこなかった青春」を取り戻すかのようにベストアルバムをレンタルしたことがあったけれど、ちょっとやそっと、いや仮にどれだけ聴き込んで曲を覚えたとしても、その過去は決して埋めることができないことを逆に突きつけられた。中学生の時に真綿のような吸収力で瑞々しい初期衝動として聴くのと、そうやって大人になってから何層ものフィルターを介して聴くのでは、やっぱり聴こえ方が違ってしまうことが明白だったからである。そして我々世代にとって、当時のDragon Ashがそれだけ鮮烈な影響力と圧倒的なカリスマ性のある音楽グループであったことを、改めて認識させられたのだった。
 すなわち、今からどれだけDragon Ashを聴いても、当時のほとばしる熱量の真っ只中で聴いていた友達と同じ景色を共有することは、もう二度と叶わない。Dragon Ash全盛の世代ど真ん中を駆け抜けた友達とでは、口ずさむ「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達」の重みの違いだって、もはや歴然。


 中学生の時にリアルタイムでDragon Ashを聴いておけば良かったと思うように、やっぱりその時々でやっておいた方が良いことは、その時の年齢やそれぞれの局面で少なからず存在すると思う。
 逆に、今までを振り返ってあの時やっておいて良かったと思うのはバックパッカーだ。バックパックを担いで東南アジアだったりインドだったりを計三回に分けて旅行していたのが、二十六歳から二十九歳の時。当時は決して照準を合わせたわけではなく、むしろ初めての旅で訪れたカンボジアのゲストハウスでたまたま話した日本人の男子大学生に教えてもらって知ったのだけれど、小説『深夜特急』の著者・沢木耕太郎は、旅に出る適齢期に二十六歳を挙げている。後々その沢木耕太郎の『深夜特急』や『旅する力』を実際に読んでみたところ、ある程度世間に揉まれて経験や判断力が備わってくる一方で、まだまだ未経験の部分もあって感動したり吸収したりすることができ、なおかつ社会復帰にもそれほどまだ隔たりがない年齢という意味でも二十六、七歳が旅に出る年齢としてちょうど良いと書いてあった。旅に出るタイミングに遅いことなんてきっとないのだろうし、年齢を重ねて円熟味が増してきたからこそできる旅もひょっとしたらあることだろう。しかし、どこか肩に力が入ったまま勇んで日本を飛び出し、徐々に確立されてきた自分自身を全力で解放しながら若さ溢れる勢いとバイタリティで真っ向から異国そのものへとぶつかっていくような旅は、やっぱり二十代後半だったからできたのだと、バックパッカーを始めたあの頃から十年が経とうとしているこの今振り返ってみてより感じるのだ。本当にあの時行っておいて良かったと、心の底から思う。


 その時々でやっておいた方が良いことは、その時の年齢やそれぞれの人生の局面でやっぱり少なからず存在する。


 しかし、遠回りに遠回りを重ねて聴く『陽はまたのぼり繰り返す』も、これまた味わい深くて沁みるなと気づく今年三十六になる春。

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