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僕が僕だったらいいのに

世界が滅んでも、きっと僕はあの信号が変わるのを待つ。

僕は昔から親友と呼べる人がいなかった。僕が仲良くしている友人には、僕以上に仲の良い友達が必ずいた。誰にも選ばれないのは今迄の人生が証明している。
そんな僕が誰かにとっての唯一人になれるはずがないと思った。

彼女との出会いは大学のサークルだった。
僕が顔を見ると、彼女はいつも前髪をいじった。左目だけが一重なのを気にして、前髪で隠そうとする。僕は気にならなかったが、自分がどう思うかが大切だと言っていた。それでも二重にするのは自分を偽っている気がすると、葛藤していた。よくわからなかったが、人間らしい子だと思ったのを覚えている。
僕らはサークルという形を保っているのが不思議なくらい緩やかな団体に属していて、部室に集まり好き勝手な話で有り余る時間を潰していた。その場所は面倒なひねくれ者ばかりが集まっていた。定例のイベントは映画鑑賞だった。全米が泣いたものとか、純愛が胸を打つものとかを好き勝手に批判した。ある映画では記憶を失った妻に自分達の出会いからの物語を語って聞かせる男性が登場した。冒頭で彼は「誇るもののない人生だったが、一人の女性を愛し続けたことだけは誇りに思う。」と語った。僕はこの言葉は人生における一つの答えかもしれないと思った。そんなことを考えていると部室が騒がしくなり、映画どころではなくなってしまった。いつものパターンだった。

僕は八方美人な性格だったが、その場所では自分勝手な発言ができた。彼らは僕と同じ場所にいると思えたからかもしれない。

彼女が僕に付き合おうと言ったのは大学3年の終わりだった。
その時、僕らは何故か数人でパクチーの話をしていた。
「パクチーからはカメムシの匂いがするから嫌だ。」と誰かが言った。それに対して僕は、「カメムシからはパクチーの匂いがするから良い匂いなんだ。」という訳のわからない暴論を叩きつけ、話し合いは終極を迎えた。その後、部室に取り残された僕ら二人はしばらく下らない話を続けていたように思う。
しばらくの無言が続き、彼女は僕に付き合おうと言った。

僕は素の自分というものが受け入れてもらえることに、新鮮な驚きと喜びを感じた。自分を肯定してくれる人がいる事はこんなにも心強いのだと知った。
そして僕らは付き合うことになった。「彼女をずっと大切にしよう」と思った。

その頃、怠惰な大学生活と並行して就職活動が始まっていた。地方公務員を目指し日々図書館に篭る彼女に対して、僕の将来は何も決まっていなかった。彼女との差が開いていくのを感じるたびに、何かをしていなければ彼女と会う事はできない、そんなふうに思った。彼女と会うために、世間一般で言われている就職活動、インターンシップや説明会を漫然とこなす日々を過ごした。

大型の企業説明会に参加した時だった。採用担当の放つ選ばれたもの特有の雰囲気と未来に希望を抱く若者たち。立ち並ぶブースとカラフルな有名企業のロゴ。あまりの人の多さに僕はすぐに帰路に着いた。無料送迎のバスの席に座ると、疲れが押し寄せてきた。やりたいことなんてなかった。不安が体を満たしていく。
窓の外を眺めると大東京の街並みが広がっていた。高層ビルの間から西日が差し込んでくる。オレンジ色の一筋の光。

「今自分が大切に思うもののことを第一に考えるんだ。」
「彼女以上に大切なものなんて僕は持っていない。」
頭がぼんやりしてくる。まるでステージショーのように頭の中に煙が立ち込める。そして一つの思考がライトアップされる。唐突に自分の中に答えが降りてくるのを感じた。
彼女の好意を受け入れたなら、責任が生じるはずだ。彼女の目指す道が決まっている以上、付き合い続けるためには僕が変わらなければならない。結婚まで意識すれば尚更だった。長期的に考えれば、一流企業に入って高収入を得る事は必要な事かもしれない。それでも目の前のものを見ずに、未来を見るべきではないと思った。僕はあえてそれ以上のことを考えるのをやめた。

彼女と同じ地域で働く、バスから降りる時には答えは固まっていた。彼女との生活を意識すると選べる就職先は限られるはずだった。この時、僕は道が細っていくのを感じつつ、その先の光が強くなっているのを感じた。

僕はそれから勤務地を意識して就職活動をするようになった。就職活動を始めてわかったことだが、彼女と同じように地方公務員を目指すにはもう遅すぎた。また、大企業の総合職という採用の形態では全国転勤の可能性があった。大企業の中の地域限定採用、それしかないと思った。その時の僕が見ていたのはその一つの可能性だけだった。

就職活動の末、僕はとある企業から内定を貰った。
従業員約8,000人の大企業、その県支部という位置づけだった。僕の立場は地域職というもので、転勤はなかった。その企業には、全国職と地域職という職種があり、地域職は、転勤がない分給料が下がった。それによって地域職の職員の中には、全国職に対して劣等感を感じるものもいた。
それでも僕にはそこで働く理由があった。その事実は僕を安心させた。同期との顔合わせで志望動機を聞かれれば、僕は「彼女との生活のためだ。」と言えた。

就職活動は難航していたため、彼女にも進捗を伝えていなかった。
彼女に内定を貰ったこと、神奈川県で働くことができることを伝えると、彼女は少しだけ泣いて「優しいね。」と言った。何故だろう心が痛むのは。

大学の友人、バイト先の職員さん、故郷の家族。
就職先と理由を話せば誰もが納得してくれた。
そして誰もが良い選択をしたと褒めてくれた。

褒められて悪い気はしなかったが、僕には選択した実感がなかった。
ただ行き着いたんだと思った。
漫画や小説で表現される別れ道。選択を迫られる主人公。
僕にはそんな経験がなかった。僕にはいつも答えが見えていたから。
いつも正しい方は決まっていたから。選択を迷うことなんてないと思った。

人生の岐路に立つ。大学受験、就職活動、結婚。
そんな時、僕らは何を基準に選択するのだろう?
僕らは、自分の今までの経験や貰った言葉、蓄えた知識から判断することしかできない。だとすれば選べる選択肢は一つに絞られるのではないか。
だから僕は当然のこととして、ここに行き着いたんだ。
僕は、そんな自分として生きてきたことを嬉しく思った。

そんな就職活動を経て、僕はとある海沿いの街で働くことになった。彼女も努力を実らせ、地元の市役所で働くことになった。僕が住んでいた海沿いの街は、全盛期が過ぎたことを知っている寂しさがあった。その街にはかつて自動車メーカーの大きな工場がいくつもあった。工場では沢山の人が働いていて、街には活気があふれていた。そしてここ10年で縮小・閉鎖が続き、多くの人がこの街を去った。寂れてしまった街を僕はよく歩いた。

彼女は毎週土曜日に、僕の住む街まで遊びにきた。毎回駅の改札で待ち合わせをして、お昼ご飯の相談をしながらコンビニに行った。新商品をチェックして、それぞれ一個ずつアイスを買った。僕の家に帰って一緒に昼食を作り、一週間に起こった出来事を報告し合い、コンビニで買ったアイスを食べた。彼女はいつも僕に「一緒にいてくれてありがとう。」と言う。僕はいつも彼女にどんな言葉を返せば良いのかわからなかった。彼女と会える土曜日の存在で、平日の仕事を乗り切れた。このサイクルは僕にとってちょうどよかった。

僕にとって平日をより憂鬱にするものが飲み会だった。職場の同期との飲み会も例外ではなかった。僕は同期との距離を取りたがったが、嫌いではなかった。ただ何となく自分だけが違う方向を向いていて、その場所に馴染めていないと思った。それでも同期は無理やりにでも仲間として扱ってくれた。同期は僕と彼女の関係を羨ましがり、よくイジった。
「彼女のためにこの職場で働いている。」
お調子者の同期は僕の入社理由を笑い話として話していた。
僕はそのイジリに笑いながら返答しながらも、自分の言葉に違和感を感じていた。
他人の口から聞いた僕の言葉は、別のものとして響いていた。その言葉に嘘はないだろうか。

あの土曜日が夏の始まりだったように思う。海と駅を結ぶ一本道には、湿気を大量に含んだ生温い風が吹き抜けている。彼女を迎えに駅へ向かう僕はおばあさんを見かけた。おばあさんは駅前の大通りで行き交う人々の中、その場所に留まっていた。おばあさんの横を通ろうとすると、僕に近づいてくるのを感じた。僕はイヤホンを外し話を聞いた。どうやらおばあさんはバス代がなくて家に帰れないという。そしてお金が欲しいと言った。おばあさんの目的地は、僕の職場の近くで駅からバスで行くには300円ほどが必要となる。おばあさんは僕に1000円でいいから欲しいと言った。バス代以上のお金を要求する言葉からは切実さのようなものを感じなくて、おばあさんの視線が泳ぐのを僕の目は捉えている。どうして僕に話しかけたのか、バス代が無いのにどうやってここまで来たのか、何故1000円を要求するのか、疑問はいくらでもあった。

頭がぼんやりする。「困っている人は助けなければならない。」

僕はほとんど迷うこともなく、おばあさんにバス代を渡した。お金を受け取ったおばあさんはバスロータリーへ向かう。混雑するロータリーをうろつき、辺りを見回すおばあさん。人の良さそうな女性に話しかけている。僕にそうしたように。女性は困ったように財布を触る。僕はそれを見ていた。

敬愛するアーティストが歌う。
「裏切られた事に胸をはるんだ。信じようとした証拠なんだ。疑った分だけ損したんだ。」大丈夫。僕の行いはきっと正しい。
僕は落ち着かないまま、改札へ向かった。
「何でお金を渡したの?」
「困っている人は放っておけないだろ。」
「気付いてたんでしょ?それは善意?」
「僕は正しくありたい。」
じっと立っていると思考は先へ進まない。自問自答が繰り返される。僕が揺らいでいくのを感じる。その時、彼女が改札から出てきた。僕らはいつものように歩き出す。彼女と話していると心が落ち着きを取り戻していくのを感じた。

僕らは土曜日を過ごした。別れ際、彼女は僕の目をじっと見た。
動悸が激しくなるのを感じる。僕はこれ以上耐えられない。
彼女はいつも通り「一緒にいてくれてありがとう。」と言った。

「違う……」
消え入りそうな言葉は彼女には届かなかった。
僕はずっと気付いていた。もうやめよう、そう思った。

僕の人生で現れることのなかった別れ道。本当にそうだろうか?
いつからか僕は岐路に立つことを放棄してきたのではないだろうか?
悩むのが面倒だから。責任を取りたくないから。
困っている人を助けたかったんじゃない。
困っている人を助けられない人間になりたくないだけだったんだ。
だから僕にはお金を渡すしかなかったんだ。
誰かから見て正しい存在であるために。

いつかの僕は正しさを愛していた。純粋に、そうありたいと思ったんだ。
この世界には色んな正しさがあった。
法律や注意書き、映画や音楽の中にも正しさはあった。
僕は迷いなく進めた。力強く動けた。
いつからか正しさは迷わないための道具になった。

そして、僕は僕の宝物を利用した。
就職活動の説明会会場。多くの可能性が提示され、自分の今までの人生が試される。そんな挑戦に耐えられなかった。僕は劣等感に耐えられず、正しさで僕自身を塗り固めた。彼女のためであれば、そのために選んだことであれば、一流企業に入らなくても問題なかった。これ以上、何かを目指す必要がなかった。そして僕が生きていく職場では、僕自身を飾った価値観が正しさになることをわかっていた。
彼女のために生きる。僕はこれを幸せと呼ぶと決めた。

今まで自分の生活を彩っていた全てが剥がれ落ちていく。
飾られた空洞が姿を現す。空っぽになった僕は思う。
思い描いた純粋な僕であれたらと、正しい僕であれたらと。


僕が僕だったらいいのに。


自分の偽りを受け入れる事は、今までの自分を否定する行為だった。同じ歩数の毎日を生きた。そんな日々は色を失っていた。たぶん今までついていた色が偽物だったんだと思った。

いつからだろう?
説明書を読んで、全てを知った気になっていたのは。
いつからだろう?
人から貰ったもので自分を形作っていたのは。
いつからだろう?
大切なものを利用しなければ生きていけなくなったのは。

僕の判断基準は誰かの言葉であり、正論のコピーだった。
僕が持っていたもの全てが偽物なんだと思った。

いつもの土曜日は今週もやってきた。先週のように彼女と駅の改札で待ち合わせをして、お昼ご飯の相談をしながらコンビニに行った。新商品をチェックして、それぞれ一個ずつアイスを買った。僕の家に帰って一緒に昼食を作り、一週間に起こった出来事を報告し合い、コンビニで買ったアイスを食べた。彼女と会える土曜日も、平日の仕事を乗り切ることも意味を失っていた。

駅までの帰り道、彼女は話しだした。
「私、君が何か考えてるの好きなんだよね。私達のことを考えているんでしょ?
 真剣に向き合ってくれてると思うと嬉しくなるんだ。」
「でも、僕が何を考えているかなんてわからないよ。」
「大丈夫。私は私が信じたいことを信じるから関係ないよ。君だってそうだよ。
 君は自分がなりたい自分になれるんだよ。そうなりたいと思うだけで。」
僕はその暴論に論破されたように思う。救われた気持ちだった。

駅からの帰り道、彼女の言葉が頭を反響する。信号の押しボタンを強く押した。
もう一度、僕がなりたかった僕を目指してもいいのだろうか。自分の正しさを自分で決めていいのだろうか。
信号が青に変わった。僕は歩き出す。

僕はこれから人生を選び直していく。僕が僕であるために。

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