【創作怪談】名前が分からなくなる話
大学の先輩の加奈子さんに呼び出されて、久しぶりにカフェでお茶することになった。
「あんたさ、怖い話とか集めてるんでしょ?」
開口一番、加奈子さんはそう言って笑った。いつもはばっちりメイクしている人なのに、今日はすっぴんのようで、それに少し、やつれて見えた。
「人の名前だけ出てこないことってよくあるじゃない。例えば同じ語学クラスの友達で、学科はどこで、何のサークルに入ってて、こんなバイトしてて、彼氏はこういう人で……まで分かってるのに、肝心の名前がぜんぜん思い出せないみたいなさ」
ああ、と僕は頷く。
「それ、『ベイカーベイカーパラドックス』って名前まであるらしいですよ。人の名前って、肩書きとかの他の情報より覚えにくいんですって」
「だからさ、あるあるだと思って気にしてなかったのよ最初は」
ワイドショーで、ある俳優が急死したという訃報を目にして加奈子さんは「そうだ、○○さんだ!」と思った。その前の日、ランチに入ったカレー屋のテレビで流れていたドラマの再放送を横目で見ていて、
「あれ?この犯人役の役者さんなんて名前だったかな?最近もあの映画とかに出てた人だよ……何さんだっけ?」
と、ずっとモヤモヤしていたのだ。昔、好きだったドラマで印象的な役を演じていた俳優さんだったので、こんな形でスッキリしたくなかったなぁと加奈子さんは思った。
次は、マンションの管理人さんだった。宅配便の荷物を受け取っておいてくれたり、風邪をひいたと言ったらポカリを買ってきてくれたりと優しいおじいちゃんで、朝の出がけにはいつも「△△さん、行ってきます!」と名前で呼びかけていた相手だった。なのに、ある朝、急に名前を忘れてしまった。いつもと同じ笑顔の管理人さんに、もごもごと歯切れの悪い挨拶をして出て行った。
夜になって帰ってくると、玄関前にパトカーが来ていた。あたりに野次馬が集まっていたので聞くと、管理人さんが階段で足を滑らせ、頭を打って亡くなったという。
もちろん、ショックだったが。
あっ、二回目だ。そう思うと急に気味が悪くなった。
決定的だったのは三度目だ。
朝起きて、部屋の壁に貼られたポスターが目に入った。
加奈子さんが高校生の頃から追っかけている男性アイドルグループのライブポスター。揃いのタキシードに身を包んで、メンバー五人が決めポーズしている。……そのひとりの名前が分からない。そんなことあるわけがない。足掛け五年もファンをやってるグループの、しかも一番の推しの名前を忘れているのだ。何度もライブやイベントに足を運んで、一緒に写真を撮ってもらったことだってある。
私が急に名前を忘れてしまった相手は――加奈子さんはスマートフォンを手に取ってニュースサイトを開いた。
真っ先に目に飛び込んできた見出しは、「彼」が昨晩、投身自殺したと告げていた。
「予知能力、みたいなことなんですかね?」
加奈子さんが話し終わるのを待って、僕は言った。マンションの管理人さんはともかく、その俳優とアイドルの訃報は僕も知っていた。
加奈子さんは寂しげに笑って、
「荒唐無稽な話でしょ? こんなこと誰にも相談できない。頭おかしいと思われるもん。でも、本当に怖くてさ。どっかに吐き出したくて。だから、怪談とか好きなあんたなら面白がって聞いてくれるんじゃないかと思って呼んだんだ」
「面白がらないっすよ。……ただ、もうすぐ死ぬ人がそういう形で分かるってだけなら、まぁそこまで害はないとも思いますけどね」
「――害があるとかじゃないんだよ」
静かだけど、それだけに怒りややるせなさを感じる声だった。
「怖いんだ。こんなことを想像しちゃうんだよ。ある朝、鏡の前に立ったら――そこに映る自分の名前を忘れてるんじゃないかって。ねえ、」
僕は言葉を失った。「……すいません」
彼女の顔が引きつっているのは、僕が余計なことを言ったせいだと思った。
でも、違った。
加奈子さんは酸欠の魚みたいに口をぱくぱくさせて、そしてやっと言葉になった。
「ごめん……あんた、名前なんだっけ?」
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