未発売映画劇場「吸血鬼ガンマン」
ここ数年、読書はもっぱら電子書籍にしていたのですが、この本の魅力には耐え切れず、ひさびさに紙の本(てのも変なんだが)を手にしました。
この6月に発売された『死人街道』(新紀元社)
著者のジョー・R・ランズデールは日本紹介当初から読者として好きな作家だったのですが、編集者としても数作を担当しました。彼の長編の代表作(エドガー賞受賞)『ボトムズ』や、映画「プレスリーVSミイラ男」の原作『ババ・ホ・テップ』を手がけられたのは私の編集者時代の誇りのひとつです(いずれも早川書房)
そのランズデールのホラー短編集、それもランズデールいわく「ウィアード・ウェスタン」つまり「西部劇+ホラー」というジャンルの短編集とはたまらないですね。今年度のベストワン候補であります(私見です)
さて、その『死人街道』の著者まえがきに、彼がこのジャンルにハマったきっかけとして一本の映画が挙げられています。「こいつぁすげえ」と思ったとか。
その映画が、こちら。1959年の「Curse of the Undead」であります。「不死者の呪い」ってとこでしょうか(例によって本稿のタイトルはオレ製)
いうまでもなく、ウィアード・ウェスタンです。
西部のスモールタウンで若い女が次々と怪死する事件が発生し、その真相を追う医師も怪死。やがて流れ者のガンマンが医師の娘に接近する。事件とガンマンの関連を怪しんだ若い牧師は、男の意外な正体に気づくが……
タイトルにもなっているから隠す必要もないと思いますが、流れ者のガンマンがじつは吸血鬼(Undead)なのです。
というとなんか大して意外でもないような気がしますが、しかし1959年のこの作品、じつは西部劇にこうしたホラー要素を持ちこんだ最初の映画といわれているのです。これはちょっと貴重。
たとえば、この「未発売映画劇場」でも観てきた「ビリー・ザ・キッド対吸血鬼ドラキュラ」や「ジェシー・ジェームズ対フランケンシュタインの娘」といった場末映画よりも前に作られていたんだから、けっこう大した映画なのではないでしょうか(ちなみにこの両作品は1965年の製作)
いやまぁ、あんな映画とくらべて大した映画って言ってもねぇ。
とはいえ、登場する吸血鬼のガンマンはちょっといい感じ。モノクロ映画だからピンとこないけど、黒ずくめスタイルは「シェーン」のジャック・パランスや「荒野の七人」のユル・ブリナーに匹敵するカッコよさ(褒め過ぎかな)
風貌も、ちゃんと吸血鬼っぽいでしょ。ちなみにドラキュラ伯爵ではないようで、スペインからやってきた吸血鬼だそうです。
なるほど、2本の牙も見せないし、ニンニクや十字架を恐れもしないし、鏡に写らないとかもなし。なによりも白昼堂々と出歩いてます。そうしたドラキュラ的な約束事はけっこう無視。
ドラキュラ映画の老舗ユニバーサル社系の作品なのに、ブラム・ストーカーの原作『ドラキュラ』や数々の映画、たとえばベラ・ルゴシの「魔人ドラキュラ」(1931年)やクリストファー・リーの「吸血鬼ドラキュラ」(1958年)が製作者や脚本家の頭によぎらなかったんでしょうかね。
でも考えてみたら、あの「ビリー・ザ・キッド対吸血鬼ドラキュラ」に出てきたドラキュラ伯爵(ジョン・キャラダイン)も日中に屋外を闊歩してましたねえ。大西部の日光は吸血鬼には効かないんでしょうか。
この吸血鬼ガンマン、無敵です。なにしろ吸血鬼ゆえ、銃で撃たれたくらいじゃビクともしません。だから早撃ち自慢の西部の荒くれたちがガンファイトを挑んでも、そりゃあ勝てるわけがない。弾丸が当たっても死なないんだから。
ちなみに、着ている服に弾丸の穴が開いているのを見とがめられても、「懐にしていた煙草入れのおかげで助かったのさ」などと古くさい言いわけで切り抜けたりします。
吸血鬼ガンマンを演じたのはオーストラリア出身のマイケル・ペイト。1950年代から60年代には多くのテレビシリーズに出ていたから、古い映画ファンならなんとなく見たことのある顔かもしれません。
対する牧師を演じるのは、TVウェスタンの名作「ローハイド」で主役、つまりクリント・イーストウッドのボスのフェイバー隊長を演じていたエリック・フレミング。「ローハイド」で世界的な人気を得た人だけど、この映画は「ローハイド」放送開始以前の出演作でした。
まあそうしたわけで、けっこうアメリカのモノ好き(ランズデール御大を含む)のあいだでは有名な映画なんですが、日本ではけっきょく未公開、どうやらテレビ放送もソフト発売もないままのようです。
モノクロ作品というせいもあるでしょうが、映画の出来栄えそのものが原因だと思われます。
というのも、もうひとつパッとせんのですよ、映画全体は。
特殊効果があんまり冴えないせいもありますが(ラストの吸血鬼消滅シーンは、もうちょっとなんとかならなかったのか)、それよりもストーリーがピンとこない。
西部劇に吸血鬼というワンアイデアで企画された映画なのだろうに、ストーリーがそこに絞られていないのです。映画のかなりの部分が、昔ながらの西部劇要素である水源の奪い合いとか、対立する二つの家族とかに費やされていて、そのあいだ吸血鬼は蚊帳の外。
牧師対吸血鬼の対立も、神の使者と悪魔の使徒の対決といった盛り上がりではなく、医師の娘をめぐる三角関係なんだから、鼻白む。
吸血鬼映画になりそこなってるんだよね。
そんなわけで、名作として後世に残るような映画にはならなかったわけです。ランズデール御大も、最初に見たときには感心したものの、以後数回観るうちに(でも数回観たんだね)感動も色褪せ、最終的には大した映画ではなかったと結論しているのです。
ただ、上げたり下げたりで申しわけないけど、このアイデアだけは評価してやるべきだと思うんですよ。最初に思いついたヤツは、やっぱりえらいよね。
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